書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

助演

自分の人生に集中しすぎると、加速感が増すにつれて視野が狭まり、自分以外見えなくなる。集中と充実の加速度が強すぎて、他の人が見えないし、気にもならなくなる。周りはゲームで同じセリフを吐く、ただのモブキャラのように見える。

関わる人とのやり取りは、全て自分に関することばかり。無駄なやり取りもせず、相手の話もあまり聞いていない。テイカーとギバーなら、テイカー一択。関わる人は、個性を持ったその人じゃなくて、ただのモブキャラだから別に罪悪感も無い。集中と加速が過ぎて、そんな感じで、ぎゅーっと突っ走る時がたまにある。

 

自分の人生に集中することは当たり前だし、悪いことじゃない。集中と加速は素晴らしい。寧ろそうするべき。自分の人生にのめり込むことが悪いはずがない。なんだけど、それだけなのもどうなのか。集中と加速の反対側にある、無駄や偶然なんかが無いのは、ロボットみたいな感じもする。そうなるように仕組まれて、その通りに動く人生のような。それって、随分こじんまりとした人生で、痩せた人生のように思ってしまう。

 

たまに誰かの人生に乗っかったり、協力したり、何の気なしに付き合うこと。自分だけの人生には、無駄で偶然満載のそういう誰かの人生の「助演」をすることで、集中と加速では得られない、何かを得られる時がある。

誰かの価値観を横で見ながら、その人の人生の登場人物になる事で、自分主演の人生に、自分では見つけられなかった新しい価値観や喜びを持って帰れるときがある。助演どころかモブキャラかもしれないけど、何かを得られたら出演した価値がある。

 

人生の半分だとどう考えても多いし、三分の一でも多いし、四分の一でも多いけど、五分の一位は誰かの人生の助演を演じてもいいんじゃないのかと思う。そこで費やした意思力と時間は、自分主演の人生に、その何倍も恩恵をもたらしてくれそうな気がする。

 

モブキャラでも構わないので、皆様もっと遊んでくださいませ。