何か問題が起きたとしたら、円満に解決するのが理想だし、解決できなくても、何らかの形で決着を付けて前に進もうとする。それが正しいとずっと思ってきたし、今も理想はそうだと思う。解決も決着も付けず、「あいまい」 にするのは嫌だったし、そうする方向に、事を進めようとする人が嫌いだった。
ただ、問題はそう簡単に解決できるものばかりでもない。誰が正しい、誰が悪いが曖昧だったり、ハッキリしていても、それを行動で諭せなかったり、人によって望む解決先が違ったり。その他諸々あって解決できない時も当然ある。決着を付けるのだって、解決できていない以上、誰かとの衝突や気まずさを生むので、それなりに高いハードルになる。都度、もっと上手いやり方は無いのかと自分を責めつつ、その辺のスキルを上げるよう努力してきた。ずっと解決と決着にこだわってきた。
でも歳を取って大人になり、キャリアも重ねると、そういった解決や決着だけが、必ずしも正解な選択ではないのではと、気が付き始めた。解決や決着が難しい状況なら、無理せず、あいまい という選択も悪くないと思えてきた。あいまいを嫌い、避けてきた理由は、しょうもないプライドとか、白黒以外ありえないという薄い価値観や、独りよがりの、無駄な正義感にあったことを自覚した。
若い時に嫌い、軽蔑していた、あいまい な状態という落し処の価値に気が付くのと同時に、そこに落とし込むには、それなりのスキルがいる事も知った。あいまいにすることが、今少なくとも現在で一番望ましいと理解し、上手くそこに誘導して落ち着かせるのは、凄くレベルの高い技術が必要。単にほったらかしておけば、そこに落ち着くというものじゃない。そして弱い心では出来ない。あいまい な状態で受け止め、解決や決着を急かす周りや、自分自身の解決や決着に執着する心に対抗できる、強い自分を試される。
昔馬鹿にしていた、あいまい で済ませてしまう「おっさん連中」は、案外大した人達だったのかもしれない。
あいまい で回りも自分も回せるか。これはその人の強さを推し量る、一つの目安になると思う。