社会人になって3、4年経ったあるタイミングの時から、「勝ち負け」という価値観をとても大事にするようになった。自然となったというか、この価値観を信じないと、子供時分から学生時代を経て、ずっと中途半端でダラダラし続けると急に嫌気がさしてきて、そう切り替えた。自分なりに、それで成長してきたと思えるから、そう切り替えれたのは正しかったと思う。
自分の人生、真剣に生きないと。
元々、自然にそう生きてきた人も多いだろうし、何かの出来事をきっかけに、緩やかにそうなる人もいれば、俺のように急激にスイッチが入る人もいる。それには色んな価値観の影響や、信じる何かでそうなるんだろけど、俺の場合は、勝ち負けという価値観でそれを支えた。俺にとって真剣に生きるとは、勝つか負けるかの世界観だった。表に出して勝ち負けなんて言わないし、自分の中だけでの話ではあるけど、それが支えであり、原動力でもあった。
勝ち負けとは言え、別に他人と暴力的なやり取りをするわけじゃないし、スポーツのような感じともちょっと違う。喧嘩ではないけど、フェア過ぎでもない生々しさ。勝つために、たまにはズルもする。勝ち負けの基準は、仕事であれば数字だったり、同期より上司に評価される回数や内容であったり。プライベートなら、アイツより車の運転が上手い下手や、好きな女の子に振り向いてもらえる、もらえないみたいな。割と大事なことも、しょうもない事も、全部勝ち負けという判断基準で、評価してきたように思う。
勝ったか負けたか。若い時は、出来ない癖にプライドだけは凄く高く、勝てないと不貞腐れ、ひとり籠り歯を喰いしばったし、勝ったら全身で喜びを爆発させるような、下品なところもあった。でもそれで自分なりに納得できる、満足な生き方だった。だから当時の自分に会えたら、その価値観で突っ走るのは正解だったよと伝える。
勝ち負けで正しかったと思える理由の一つは、自分の器を割と正確に測れていたと思うから。自分で自分の器はよくわかっているつもりだったし、今でもそう思う。これぐらいの結果は、これ位やれば俺は出来る、でもこれに関しては、死ぬほどやっても俺は無理とか。その辺の、自分への値踏みが割と把握できていた。
全然大きくない器。ただ生まれ持った器を、溢れる手前8割から9割まで満たすことをやれてきた。裏返すと、基本勝つ勝負、勝てると踏む勝負しかしないし、組織や他人から振られる、拒否できない勝てそうにない事に関しては、裏テーマを自分で設けて、そこで勝ち負けの勝負をしていた。求められている結果は無理だけど、自分の中でがここ迄やれたら勝ちとか、違うこれを成したら勝ちとか。だから大抵のことは、勝ち負けという勝負ごとに変換しても、勝った負けたの終末に対して、受け入れることもできた。器を考えたら、よくやってきたと思う。
勝ち負けの価値観を否定しないし、大事な価値観でもあった。今もそう。おかげで、器を満たすのは十分上手くなった。今悪くない人生だし、そこその満たされてもいる。
でも人生、ラストスパートに向けて、ペースを上げなければならないような年になって、それでいいのかと思うようにもなった。器を満たせるとは、伸びしろを伸ばしていく、挑戦と楽しみが無いという事。勝ち負けの価値観は、器をどこまで満たすかの価値観でもある。器ありき。器を変えるような、もっと大きい器を作り出すような価値観に変えないと、まずいように思い始めてきた。そしてそのもっと先には、そもそも器なんか無い価値観が待っているような気がする。
勝ち負けの価値観を見直す時期なのかもしれない。
残りの人生、更に真剣に生きるなら、そうするべきかも。