書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

力になる難しさ

困っているのを見た時、助けを求められた時、自分がその人ならどうするか考える。「こうしたらいいんじゃない」と、自分の思う最適な動き方を考え抜くも、思いが強い人、大切にしたい人へのそれは、上手くいかない時が多い。半面、関係性が薄い人、ハッキリ言ってどうでもいい人へのそれは、上手くいく時が多い。何とかしたいと思う人程、力になるのは難しく、どうあろうと、知ったこっちゃない人程、力になりやすい。

 

大切にしたい人程、その人の立場に全力で飛び込んだつもりだったのに、気が付いたら、気持ちと価値観のロールプレイができなくなっている。その人の気持ちと価値観では無い、自分の考えと価値観からの、ベストな行動を探している。思いが強いほど、自然にそう見てしまっている。相手と自分を同一視している。

人は違うのに。

拒絶されて、それに気が付くのはまだいい。その人との関係性によっては、従わせるような圧さえ感じさせてしまっているかもしれない。

 

それって、溺れているからといって、飛び込んで一緒になって溺れるようなもの。冷静に距離を取り、岸からロープを投げる方が有効なのはわかっている。でも大切な人程、我を忘れて、水の中に飛び込んでしまう。一緒に溺れる方が、その人の事を考えているとさえ、無意識に思っていたかもしれない。大切だから、思いが強いからは言い訳であり、ただの自己満足でしかなかった。

 

思いが強い人、大切にしたい人程、力になるのが難しいのは皮肉でしかない。それを理解しつつも、力になりたいと思い続ける自分でいたい。溺れている人を見て、飛び込まない勇気を持ちたい。少なくとも力になりたいと思う資格を持つのは、その勇気を持ってから。

 

誰かの力になるって、そんな簡単な事じゃない。今更気が付く。

わかんない

シビアな話、わかるか、わからないかで言うと、人間、今まで経験したことしかわからない。経験したことしかわからないとするなら、親を無くしていない人は、親を亡くした人の気持ちがわからないし、結婚していない人には、配偶者がいる幸せや、不幸せはわからない。基本的に今の時代は自由だし、色んな生き方があるから、各々経験してきていることは、思っている以上にバラバラで多様。

共感したいし、寄り添いたいと思う時、経験したことであれば、わかると言えるかもしれないけど、そうじゃない時は推測するしかない。自分も経験している、知っていることからの共感と、わが身で起きていない、知らない事への共感は、同じとは言えない。キツく、寂しい事かもしれないけど、わかるとは言えないのかもしれない。

ただ、未経験ながらも、わからないながらも、わかろうとすることは無駄じゃない。相手に共感し、寄り添う際、それが知らない事の時は、わからない覚悟をもって、わかろうとすることが大事だし、共感され、寄り添ってもらいたい側は、わかってもらえなくて当たり前で、わかろうとしてくれるその行為そのものに感謝するでいい。それで充分。それ以上を相手に求めるのは、お互い不幸になるんじゃないか。

わからないことはわからない。人間、それ位の孤独は覚悟して生きる。そうやって、わからないという事を、わかっていながら、わかろうと努力する行為は尊く、誰にもわかってもらえない可能性を受け入れて、孤独に一人、前に進むことも尊い。

 

そういう訳で、人間、基本わかり合えないと思った方がいいように思う。少なくとも、わかるって、そんな簡単なことじゃない。それは強く忘れずにいたいと思う。

評価せず

車好きということもあり、出張の際は、色んなレンタカーを借りて楽しんでいる。先日も、前から気になっていたSUV車を借りてみた。国産車で、毎月1万台ぐらい売れていて、街中でもしょっちゅう見るベストセラー車。趣味とは真逆だけど、いい経験かと思って借りた。

乗った瞬間、なにこれって感じ。ハンドルからの感覚も、乗り心地も、振動や音も、全然思っていたのと違った。悪い方向で違った。車のジャンルや車格なんかは当然考慮していたけど、それでもナニこれ?だった。格好は確かに良いけど、それだけだなって。なんでこれが月販1万台売れる、ベストセラー車なのかわからなかった。

後悔した次の日の朝、1時間ほど経ってから急に印象が変わった。この車に合った乗り方がようやく分かったのかもしれない。ハンドルの感覚もこれはこれでアリだし、乗り心地も納得できるし、振動や音は、逆に心地良いとさえ思えた。返却の際、流石ベストセラーだなって、180度見方が変わった。

我ながら、手のひら返しが凄すぎ。

 

何かを評価するのって難しい。仕事なんかで、見方、捉え方が決められていて、評価する期限も決まっている時は、後で違う評価となったとしても、諦めもつく。

でも人付き合いとか、趣味の事とか、そういった見方、捉え方が決められていない、期限すらない事に関しては、最初の、その何となくの評価を引き摺るのはどうなのか。なんか勿体なくないって。

人にしろ物にしろ、自分としての総括を、そう簡単にできるとも思えない。そんな簡単にわかるかって。どれぐらい見たら判断できるかも、ケースバイケースで変わる。当然、違う見方捉え方が出来れば、評価が変わる事だってある。

とは言え、こんな事を言っていたら、効率的に判断しきれない。だからやっぱり、ある程度は人や物を、不確定な状況の下で、何となくの判断で評価をせざるを得ない。みんな忙しいし、意志力も時間も掛けなければならないことが山ほどある。正解であり、正義でもあり、否定はしない。

 

でも評価せずに済むのなら、それに越したことはない。評価せずの、その不確定な状態を受け入れられるになら、それに越したことはない。全てを決めつけずに済むことが出来るなら、それに越したことはない。

 

面倒かもしれない、不効率化もしれないけど、常にフラットな見方と捉え方で向き合えたら。少なくとも期限を区切られていないことなら、ずっと開放して、評価を定めないようにしていいと思う。上からな言い方をすれば、常にチャンスを与える気持ちで接することかなと思う。

 

1日で評価が180度変わった車があった。

10年近い付き合いのある友人が、受け入れられない価値観を持って接してきた。

 

これがどちらも実話は俺としたら、ホントこの考えで生きたい。

凄く難しいのは承知の上で、そう生きたい。

引き出し力

俺如きが困り、悩むレベルのこたえは、大抵誰かが既に経験しいて、幾つかの理想的なこたえに辿り着いている。という訳でこたえはある。無いわけじゃない。新しく生み出さなくともある。俺の知らない何処かに転がっている。ただ俺が辿り着けていないだけ。

 

誰かに聞く、本を読む、ネットで調べる、AIに聞く。その他諸々。訪ねる場所は大体わかっている。そこの選択肢はそんなに多くない。こたえが転がっている場所には、辿り着けてはいる筈。ただ、場所には辿り着けても、そこからこたえを引き出せるかどうかはまた別の話。

そのこたえを持っている人に会えても、こたえを引き出す聞き方が出来なかったり、書店に行っても、こたえが書いてある本の書棚に辿り着けなかったり、こたえを聞き出せる上手いプロンプトをAIに投げられなかったり。

恐らくそこにこたえはあるのに、こたえを引き出すには、また別の力がいる。それが足らないと感じる時がある。引き出す力が足らない。もどかしい。こたえが詰まった宝箱が目の前にあるのに、その鍵が見当たらないみたいな。

 

こたえは無いんじゃない。既にあって、それが目の前にある。凄い人という宝箱に囲まれている。

宝箱は見つけた。でもその宝箱を開ける鍵を持っているかどうか。引き出し力があるか。

鍵は引き出し力。それは俺次第。それを鍛え続けないと。

理想の良い人にはなれない

いろんな場面の中において、その場面で俺の立場であれば、こういう立ち振る舞いが良い人だろうという、良い人の理想みたいなのがあって、それが見えているのに、その通りにしてやればいいのに、どうしてもそれができない時がある。その俺の思う、良い人ならこう言う、こうするだろうという行いに対して、俺の言葉や態度がそれに沿えない。物理的にできないわけじゃない。その気になったら理想の良い人になれる筈なのになれない。

よくある、「俺はそれで苦労したんだから、お前も多少は苦労しろ」なのかと。俺は意地悪なのかと。いや、お前も苦労しろじゃないんだと。意地悪をしてやりたいでもないんだと。

 

そこまでお膳立てをしてしまっていいんだろうかと。俺の中の「良い人」というのが、全てをGiveする人なのだとしたら、全てを読んで先回りし、仕立て上げてしまう人なんだとしたら、それって、本当に良い人なんだろうかと。良い人は、なんでもかんでも、苦労や苦痛を無きものにする、肩代わりする人じゃないよねと。

人生って、考えたり、苦労をしたりして、簡単にスッとはいかない、何かの溜めや障害のようなものがちりばめられていて、それを超えたからこその喜びとか楽しさがある。それをこっちが勝手に取り上げるのはどうなんだろう。寧ろその人の幸せな人生を邪魔していないかとさえ思う。

そうそう上手くいかないよって。そこはあなた、もがいてくださいよって。それを見せてくださいよって思ってしまう。見せてもらえるからこそ、いざという時は、必ず駆けつけますからと。

 

それを意地悪な奴と言われたら、俺は意地悪な奴なのかもしれない。

でも、そう思われてもいいかな。逆の立場なら、俺はそうしてもらいたいし。

メンテナンス

俺なんかよりずっと人に好かれていて、人との繋がりも多い、尊敬している人から、その人より更に人との繋がりが多く、社会的にも大成功されている友人の方が、「人との繋がりを意識的に『メンテナンス』している 最近会えてなかったら、こちらから声を掛けるし、会いにいく 老後の幸せの、茶飲み友達の輪を、ちゃんと今から作っておくために」と言っていると聞く。

 

昔だったら、意識して繋がりを保つなんて、わざとらしく嘘っぽいと思っていた筈。人との繋がりに、「メンテナンス」なんて言葉を使うなって思っていた筈。でも今はそう思わない。

知り合いや友人が多い人って、周りの方が寄ってくるように見えていた。確かにそんな人もいないことは無いけど、よく振り返ったら、自分の方から周りに声をかける人が多いし、自分の方から、積極的に巻き込んでいる人が多い。なんで今迄見えなかったんだろう。間違いなくそうだわ。そうしてもいない自分を、凄く危ういとさえ思える。

 

周りの人は何時かいなくなる。生物として究極的には勿論だけど、お互い生きていてもそう。知り合って、ちょっと仲良くなって、でも気が付いたら縁が切れているなんて、日常茶飯事。数年単位と言える、中長期の関係でさえそう。

いなくなる理由も色々だけど、思いの外、あっさりといなくなる。なんか連絡するタイミングを逃して、今更連絡するのも気恥ずかしくなって、そのまま縁が切れてしまったり。前回はこっちから連絡したんだから、次は向こうから来るのを待とうと思ったり。そしてそれに意地なんかも絡まると、余計にいなくなる方向に加速してしまったり。驚くほど簡単にいなくなる。

メンテナンスという言葉は良い得て妙な言い回しだと思う。確かにメンテナンス。繋がりは、意識的にメンテナンスをしないと、簡単に無くなってしまう。

 

人との繋がりを維持しないと。維持するためにはメンテナンスしないと。俺なんかより、遥かに周りから慕われる人が、自らその努力をしているのに、俺みたいなのがその努力しないでどうなるのと。

恥ずかしがったり、駆け引きしたり、意地なんて張ってる場合じゃないなと。意識してメンテナンスしないと、こっちから声をかけていかないといけないなと思う。

 

とりあえず、たくさん遊んでください。こちらから、声かけますので。

低期待値戦略

自炊をするようになって改めて確信したけど、「おいしい」は事前の期待値を超えるか否か。プロの料理人に味で勝てるとも思ってないけど、まあ、こんな感じでできて、こんな感じの味なんだろうなって期待を超えたら「おいしい」って感じる。

 

嬉しいとかその先の幸せとか、結局、全てのことは期待値を超えるかどうか。自分の立てた予想と期待に、現実が勝っていたら嬉しく幸せを感じる。

嬉しさと幸せの正体はここかもと、子供の頃から薄々気が付いていた。だから何をやるときでも、あまり高めの期待をしないような、どちらかと言えば悲観的な、低めで最低限な期待しか持たない癖が付いた。

低い期待値、超えやすい期待値を超えて、こつこつ小さな幸せを積み重ねていくような生き方が好きだ。低期待値戦略。

 

低い期待値で生きるのもどうなのかと思う時もある。高い期待値を持った方が、努力の幅も大きくなって、より大きな嬉しさや、高い満足を得られるのかもなと当然思う。大きめの声、ビッグマウスな声で、追い込むタイプの人を見て憧れないこともない。派手だし、カッコいいし。

でも、ああいう生き方は、自分にはキツそうなのもよくわかっている。端から見て憧れるのと、その立場に身を置くのはまた別。嬉しさ幸せは期待値を先ずは超えてから。なので変わらず、低い期待値を元にした目標を立てて進めてしまう。

 

結局、あまり自分に自信が無いことに対する、裏返しな考え方なのも分かっている。でも自信があっても、結局成せない奴より、自信が無くとも最後は成している自分でいたい。そこに嬉しさと幸せを感じる自分でいたい。低期待値戦略は、そういう人間の、生きやすくするコツのようなものなのかなと思う。

 

低期待値戦略、割とお勧め。