書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

脳内劇場

ちょっと考え込むような時。オリジナルの俺の脊髄反射での対応がまずいかも...と、野生の感が芽生える時、「あの人だったら、こうするよな~」と想像する。

 

俺の脳内の劇場に、「あの人」に出演して頂く。俺が考え込むシナリオの舞台で、あの人ならこう動くという姿を脳内で観劇しながら、現実でその通りに演じる俺の姿は、他人には、俺のオリジナルに見えるんだろうし、その演じる経験が、何時しか あの人だったら...と考える前に、自分そのものとして前に出てくるようになっている。そうやって、何時か意識しないうちに、自分のオリジナルになっている。

友人知人の絶対数は、多分他の人より多くない。でも友人知人数が多い人より、「あの人なら~」と想像する機会は多いと思う。それは並の人以上に、自分とは違う価値観、違う考えと行動が出来る人と付き合えているということ。頭に直ぐ浮かび、俺の頭の中に颯爽と出演を快諾してくれる位、濃い付き合い方をさせてもらえてもいるということ。

色んな「あの人」が自分の中に居てくれて、何時でも劇場で演じてくれて、気が付いたら、そのうち自分に融合してくれて、今の自分が成り立っている。結局、オリジナルとはそういうものであり、全くのゼロから、自分一人で出来るものでもないし、仮にそうであったら、ぺらっぺらの自分しか生まれない。

 

沢山の「あの人」が俺にはいる。 ありがたや、ありがたや。

今になって、あの時を尊く思う

仕事でもプライベートでも、なんとなく今取り組もうとしていることが上手くいきそうだとか、苦戦しそうとか、最悪ダメだろうなって、わかるようになってきた。年を取れば取るほど、その精度が上がってきた。人生経験を積み重ねると、自分の能力とか、それに関係する人の熱意とか動きとか、それ以外の取り巻く何かに対して、経験の下大凡わかるようになる。普通に大人になったら、みんなそんなもんだと思う。

これを成せるのだろうか?出来るのだろうか?というのが、若い時と違って、今だとうっすら見えてくる。あれやらないと、これやらないと、じゃああれが必要、あの人の力がいるよなと、その先はこうなるかも…が、見えてくる。実現可能かどうかは別だし、全てでもないけれど、途中までのステップが浮き出てくる。そういう把握の下、やれそうだなとか、こら無理かもとか、何となく予想が付く。勿論、若い時にもそうやって考え、見ようとしたし、見てもきた。

でも解像度がもう全く違う。ステップ数も、その具体性も全然違う。そんなことを感じる度に、大人になったなと思う。

 

日々生きることで、目の前のことを解像度高く見ることが出来るようになっていく。結果、より正しい方向の判断をしやすくなる。大きな失敗も、そうはしなくなった。

 

成したいと願ったのだし、願った以上、叶う結末を望む。ダメだった未来がいい筈なんか無い。時間だって無限じゃないし、意志力だって消耗する。最初から叶わないだろうと、それが「それなりの確率でそうだろう」と自覚している以上、手を出すのは愚か。そんなことはしない。無駄な賭けの張り方はしない。その結果、己の器を弁えつつも、それなりに幸せに生きることが出来ている。

素晴らしいなと思う。そして知りうる限り、普通の大人はみんなそう。

 

ただ、若いころのように、全く何もわからない中、手探りでやってみる経験を、たまに恋しく思う時がある。あの時は、進む方向すら危うい中、飛び込まざるを得ないことがたまらなく不安だった。あの時は、今のような状況を望んでいた筈なのに、いざその立場になったら、あのよくわからない、手探りで飛び込む感覚を懐かしくも思う。人間勝手だなと思う。

 

若い時のあの経験は必要だった。手探りだからこそ拾えた教訓もあったし、あの時、無駄に思えることでも、別の違う何かの時に、その経験があるからこそ、大事な考えや気が付きのきっかけになった。あの時のあの経験は必要だった。何もわからない中での、手探りの動きは必要だった。あの時、もがくことが出来てよかった。

 

尊い、あの経験はもう出来ない。それを少し悲しくも思う。

あの当時の俺にそんなこと言ったら、凄く怒られそうだけど。

勝ち負け の価値観

社会人になって3、4年経ったあるタイミングの時から、「勝ち負け」という価値観をとても大事にするようになった。自然となったというか、この価値観を信じないと、子供時分から学生時代を経て、ずっと中途半端でダラダラし続けると急に嫌気がさしてきて、そう切り替えた。自分なりに、それで成長してきたと思えるから、そう切り替えれたのは正しかったと思う。

 

自分の人生、真剣に生きないと。

 

元々、自然にそう生きてきた人も多いだろうし、何かの出来事をきっかけに、緩やかにそうなる人もいれば、俺のように急激にスイッチが入る人もいる。それには色んな価値観の影響や、信じる何かでそうなるんだろけど、俺の場合は、勝ち負けという価値観でそれを支えた。俺にとって真剣に生きるとは、勝つか負けるかの世界観だった。表に出して勝ち負けなんて言わないし、自分の中だけでの話ではあるけど、それが支えであり、原動力でもあった。

勝ち負けとは言え、別に他人と暴力的なやり取りをするわけじゃないし、スポーツのような感じともちょっと違う。喧嘩ではないけど、フェア過ぎでもない生々しさ。勝つために、たまにはズルもする。勝ち負けの基準は、仕事であれば数字だったり、同期より上司に評価される回数や内容であったり。プライベートなら、アイツより車の運転が上手い下手や、好きな女の子に振り向いてもらえる、もらえないみたいな。割と大事なことも、しょうもない事も、全部勝ち負けという判断基準で、評価してきたように思う。

勝ったか負けたか。若い時は、出来ない癖にプライドだけは凄く高く、勝てないと不貞腐れ、ひとり籠り歯を喰いしばったし、勝ったら全身で喜びを爆発させるような、下品なところもあった。でもそれで自分なりに納得できる、満足な生き方だった。だから当時の自分に会えたら、その価値観で突っ走るのは正解だったよと伝える。

勝ち負けで正しかったと思える理由の一つは、自分の器を割と正確に測れていたと思うから。自分で自分の器はよくわかっているつもりだったし、今でもそう思う。これぐらいの結果は、これ位やれば俺は出来る、でもこれに関しては、死ぬほどやっても俺は無理とか。その辺の、自分への値踏みが割と把握できていた。

全然大きくない器。ただ生まれ持った器を、溢れる手前8割から9割まで満たすことをやれてきた。裏返すと、基本勝つ勝負、勝てると踏む勝負しかしないし、組織や他人から振られる、拒否できない勝てそうにない事に関しては、裏テーマを自分で設けて、そこで勝ち負けの勝負をしていた。求められている結果は無理だけど、自分の中でがここ迄やれたら勝ちとか、違うこれを成したら勝ちとか。だから大抵のことは、勝ち負けという勝負ごとに変換しても、勝った負けたの終末に対して、受け入れることもできた。器を考えたら、よくやってきたと思う。

 

勝ち負けの価値観を否定しないし、大事な価値観でもあった。今もそう。おかげで、器を満たすのは十分上手くなった。今悪くない人生だし、そこその満たされてもいる。

でも人生、ラストスパートに向けて、ペースを上げなければならないような年になって、それでいいのかと思うようにもなった。器を満たせるとは、伸びしろを伸ばしていく、挑戦と楽しみが無いという事。勝ち負けの価値観は、器をどこまで満たすかの価値観でもある。器ありき。器を変えるような、もっと大きい器を作り出すような価値観に変えないと、まずいように思い始めてきた。そしてそのもっと先には、そもそも器なんか無い価値観が待っているような気がする。

 

勝ち負けの価値観を見直す時期なのかもしれない。

残りの人生、更に真剣に生きるなら、そうするべきかも。

淀屋橋と梅田 15分間

誰かと会うのは、梅田と言われている大阪駅周辺エリアが多い。自宅から梅田に行くには、私鉄で自宅から淀屋橋と言う駅まで行き、そこから地下鉄に乗り換え一駅ほど。時間にして僅か3分。私鉄と地下鉄の駅は接続しているし、殆どの人はそのまま地下鉄に乗る。

でも俺は何時も歩く。 片道15分程度。距離にして1.5キロから2キロ弱。特別に遅刻しそうとか、大雨のような事でも無い限りまず歩く。ずっと昔からそうしてきたし、これからも歩く。

 

電車で3分の方が確実に楽だけど、歩く15分に意味がある。

 

淀屋橋を出て、駅の外に出ると、少し気が引き締まる。楽しい時間にしようと、そうなるであろうと期待しながら、15分の間にテンションが上がっていく。 今日は何を話そうか?相手は何を言ってくるんだろうか?と、色々考える。そのおかげか、会った瞬間から自分を100% 出せる気がする。

梅田で別れ、ひとりで歩き始めると、さっきまで楽しかった時間が名残惜しく、少し寂しさを感じる。テンションが、クールダウンしていく。そして、今日は何を話したんだろうと色々振り返り、まとめ上げ、今日会って話をできたからこそ、明日からここが変わるとか、変えていこうとか、そんなことをゆるくだけど考える。明日以降、持ってゆく感情と、そうしない感情を整理できる。

 

地下鉄だとそれが出来ない。期待も振り返りも、3分は短い。15分程度と言うのが丁度いい。

運んでもらうのではなく、歩くという、身体を動かしながらなのがいい。ただ立っている、椅子に座っているより、考えることに集中できる。

 

季節が違えど、暑くても寒くても、晴れでも雨でも、見慣れ切ってはいるけど、毎回どこか変化のある道を、オートマチックに歩きながら、今日の予感と終わりの振り返りに使う15分間が好きだ。下手したらこの往復の30分の為に、誰かに会っているのかと思うぐらい好きだ。

 

このまま大阪に住み続けたとして、誰かと会う機会を、梅田で持ち続けることが出来たとして、俺はずっと淀屋橋と梅田の間を歩き続けると思う。

水物かもしれない

何かのきっかけで、俺の持つ何処かの「面」で相通ずるものを感じてもらい、そこで友人として繋がり、そこから繋がり続ける。

個々の友人によって、気に入ってくる俺の面は違うように思う。大きな括りで言えば同じような面であっても、その人毎に見せた俺や、見えた俺は違うはず。馬鹿なところが気に入ってくれたとしても、ある場面で言った独特な言葉のセンスを気に入ったとか、ある状況の時に取った行動がえらくウケたとか。そういう、繋がる理由となる面は、友人毎に違うんじゃないかと。全く同じ面で、複数の人と繋がれるということは、ほぼないんじゃないんだろうかと。無数の俺が、友人毎にいるように感じる。

でも、そうだとしたら、ある人が気に入ってくれた面が、それとは違う面で俺を気に入ってくれた人には合わないとか、不快に思うようなケースもあるのかもしれない。

 

生きるにあたり、特別嘘を付いたり、必要以上にワザと自分を演出しているつもりも無いけれど、どの面の何を気に入って仲良くしてくれているのか、たまに不安に思う時がある。この人にあの面はバレているのかなと気になる時もあるし、この面を違うあの人が知ったら、今と同じような付き合いをしてくれるのかと思う時もある。ある時突然、違う面を見られ、それが理由で関係を切られることがあるかもしれない。それも自分が気付かないうちに、そうされてしまうかもしれない。そういう経験が、今までなかったとも思わない。自分がそうやって切ったこともある。なのでお互い様であるのかも。

 

友人として繋がれるのは、運のようなものなのかもしれない。合う面を見せれたら繋がれて、そうじゃなければ繋がれない。合わない面を見られたら、思いの外脆く、繋がりは途切れてしまう。友人になれること、繋がり続けられることは、水物なのかもしれない。

見せていない面が、その人との繋がりを壊すことが無いことを祈る。

力になる難しさ

困っているのを見た時、助けを求められた時、自分がその人ならどうするか考える。「こうしたらいいんじゃない」と、自分の思う最適な動き方を考え抜くも、思いが強い人、大切にしたい人へのそれは、上手くいかない時が多い。半面、関係性が薄い人、ハッキリ言ってどうでもいい人へのそれは、上手くいく時が多い。何とかしたいと思う人程、力になるのは難しく、どうあろうと、知ったこっちゃない人程、力になりやすい。

 

大切にしたい人程、その人の立場に全力で飛び込んだつもりだったのに、気が付いたら、気持ちと価値観のロールプレイができなくなっている。その人の気持ちと価値観では無い、自分の考えと価値観からの、ベストな行動を探している。思いが強いほど、自然にそう見てしまっている。相手と自分を同一視している。

人は違うのに。

拒絶されて、それに気が付くのはまだいい。その人との関係性によっては、従わせるような圧さえ感じさせてしまっているかもしれない。

 

それって、溺れているからといって、飛び込んで一緒になって溺れるようなもの。冷静に距離を取り、岸からロープを投げる方が有効なのはわかっている。でも大切な人程、我を忘れて、水の中に飛び込んでしまう。一緒に溺れる方が、その人の事を考えているとさえ、無意識に思っていたかもしれない。大切だから、思いが強いからは言い訳であり、ただの自己満足でしかなかった。

 

思いが強い人、大切にしたい人程、力になるのが難しいのは皮肉でしかない。それを理解しつつも、力になりたいと思い続ける自分でいたい。溺れている人を見て、飛び込まない勇気を持ちたい。少なくとも力になりたいと思う資格を持つのは、その勇気を持ってから。

 

誰かの力になるって、そんな簡単な事じゃない。今更気が付く。

わかんない

シビアな話、わかるか、わからないかで言うと、人間、今まで経験したことしかわからない。経験したことしかわからないとするなら、親を無くしていない人は、親を亡くした人の気持ちがわからないし、結婚していない人には、配偶者がいる幸せや、不幸せはわからない。基本的に今の時代は自由だし、色んな生き方があるから、各々経験してきていることは、思っている以上にバラバラで多様。

共感したいし、寄り添いたいと思う時、経験したことであれば、わかると言えるかもしれないけど、そうじゃない時は推測するしかない。自分も経験している、知っていることからの共感と、わが身で起きていない、知らない事への共感は、同じとは言えない。キツく、寂しい事かもしれないけど、わかるとは言えないのかもしれない。

ただ、未経験ながらも、わからないながらも、わかろうとすることは無駄じゃない。相手に共感し、寄り添う際、それが知らない事の時は、わからない覚悟をもって、わかろうとすることが大事だし、共感され、寄り添ってもらいたい側は、わかってもらえなくて当たり前で、わかろうとしてくれるその行為そのものに感謝するでいい。それで充分。それ以上を相手に求めるのは、お互い不幸になるんじゃないか。

わからないことはわからない。人間、それ位の孤独は覚悟して生きる。そうやって、わからないという事を、わかっていながら、わかろうと努力する行為は尊く、誰にもわかってもらえない可能性を受け入れて、孤独に一人、前に進むことも尊い。

 

そういう訳で、人間、基本わかり合えないと思った方がいいように思う。少なくとも、わかるって、そんな簡単なことじゃない。それは強く忘れずにいたいと思う。