書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

好き嫌いですら

好きな人の好きなものと嫌いなものは、直ぐに好きになれるし、直ぐに嫌いにもなれるけど、嫌いな人の好きなものと嫌いなものは、簡単に好きにはなれないし、簡単に嫌いにもなれない。寧ろ嫌いな人の好きなものは嫌いになるし、嫌いなものは好きになったりする。

 

好き嫌いを、純粋にそれを見た上の、経験した上の、自分だけの評価で判断出来ていないのかもしれない。それは少し言い過ぎだとしても、出来ていると言い切れることは、思っているより少ないように思う。子供時代なら親の影響はあるだろうけど、親の考えから自由になった今でも変わらない。好き嫌いは、ずっと誰かや、何かの影響を受け続ける。

世間一般の中で生きていて、親子、兄妹、大切な人、友人知人その他諸々と一緒に生きている以上、それは当然のことでもあるんだろう。中々忘れがちだったり、時に気が付けていないだけ。寧ろ、周りの人との繋がりと影響を受け、初めて自我のある自分が、自分一人だけでそれを決めていると思う事の方が、おこがましいことなのかも。

 

好き嫌い一つとってみても、自分だけで決めていないことに驚く。同時に、俺の好き嫌いは、誰かの影響を受けているということは、誰かの好き嫌いに、俺は影響与えているのかもしれない。それはそれでなんか不思議な感じもする。そして悪い気もしない。

 

あなたの影響で好きになりましたと言ってみようと思う。だからもし俺の影響で何かを好きになったら、そう言って欲しい。そういわれることは、凄く幸せな事だと思うので。

詫び方

詫びを入れたいなら、相手が何に憤っているのか理解をしていることが前提。わかっていて、それに対して詫びを入れる。

当たり前のように思えるけど、案外そうじゃない時がある。詫びる時も、詫びられる時も、どちらも経験がある。なんか怒ってそうだから、とりあえず詫びを入れとけってのは、詫びる時も詫びられる時も両方あった。逃げでしかない。悪手。

わからないなら、詫びを入れない方がよっぽどいい。

 

「その憤りに共感し心から詫びる」

詫びを入れる以上、本当はそれが理想ではあるけれど、価値観が違う以上、自分だったらそんなことで怒らないのにと思うことは沢山あるし、それは別に悪い事じゃない。法や大方の倫理観を犯さない以上、どっちの価値観が正しいとかもない。詫びるのなら、価値観を変えろとまでは言わない。

ただ、相手が怒る理由となった価値観を知らずに詫びるのもありえない。まともな奴なら、怒っている態度に詫びが欲しいのではなく、納得できない気持ちに対して詫びて欲しいと思っている。踏みにじられた価値観に対して、詫びて欲しいと思っている。

それをわからず、とりあえず詫びを入れるというのは失礼なだけでなく、更に相手を傷つける。疑似的にでもいいから、その相手の価値観の下「なるほど、こういう価値観、考え方なら怒るよな」と理解してからでないと、詫びるべきではない。

相手の価値観を受け入れなくてもいい。価値観を変える必要もない。自分の価値観と相手の価値観、二つの価値観を並行して持ち、向き合あった上で詫びを入れたい。

理解した上で詫びているのか、とりあえず場を収めたいから詫びているのか、相手は気が付かないと思っているのなら、大方の場面で間違い。わかってないのに詫びるというのは、自己満足を超えて高慢でしかない。それが難しいのなら、お互いにとって詫びない方がいい。

 

詫びる側の時も、詫びられる側の時もあったし、それで縁を切られた時も、切った時もある。

どっちも不幸だから、ちゃんと詫びたいし、ちゃんと詫びられたい。

無駄使い

無駄使いは興奮する。無駄使いは高揚させてくれる。100円単位はあんまりだし、1,000円単位だと、「そんな馬鹿なことを」と悔やむ方に行っちゃうんだけど、万単位の派手な無駄遣いは震える。悪い方の震えじゃなくて、興奮と高揚の方の震えで、震える。

 

贅沢ともまたちょっと違う。贅沢はその道の先が、自分にとって喜びや幸せにつながる価値があると信じられるものに、ちょっと大目のお金を託し、更にその幸せのボーナスを増やすことを狙うことだけど、無駄使いはそうじゃない。

「その道の先は多分楽しいんじゃないかな、幸せに繋がっているんじゃないかな、だったら嬉しい でも違うかもしれないし、なんならそっちの可能性も高いよな 多分違う  でもまあええか」な。

ミスったらそのまま大損失かもしれないけど、もし当たったら、未知の知らなかった幸せを総取り。これぐらいじゃないと、無駄使いとは言えない。つまりはギャンブル。

 

無駄使いは、自分の知らない未知の世界と楽しさへの賭け金だと思う。お金を掛ける根拠が、論理的に納得できるレベルにはないものに、勘と今迄の人生経験、なんとなくの感情と、そこからの勢いで、万単位のお金を賭けることに、興奮して震えないわけがない。

 

無駄使いは賭け。ギャンブル。賭け事は嫌いなんだけど、無駄使いは嫌いじゃない。

 

つまりは、新しいバイクを買いました。

切り分け

中々許せないことがあって苦しい。無かったことには出来ず、昇華させることが出来ないのなら、相手との縁を切ればいいけど、今回は相手との縁は切りたくない。対外的にもそのままだと不味い。でも、なかった事にはできないし、昇華もできない。

 

誰かが何かをして、こちらに影響を与える。「誰か」と「行為」の2つがあって、それに対して俺がどう受け止めるか。行為=誰か、誰か=行為と受け入れてしまう。2つで一つ。その行為が許せなかったら、その誰かも許せなくなる。その誰かは好きでも、その行為が許せなかったら、その誰かを許せなくなる。

その人がする行為が嫌で、それが紐づいてその人のイメージになり、それが何度も重なっていくことで、その人自身も許せなくなる。行為が先にあって、それがその人を印象付ける。そしてその人を許せなくなり、最後は嫌いになる。

誰かを許せないというのは凄く苦しく、出来れば許したい。それも行為ごと許せるのが理想だけど、それが出来ないのなら、人と行為を分けたい。した人とされた行為を分けたい。人と行為はそもそも別。行為だけをゆるさないとしたい。

 

行為と誰かを切り分ける。許せないのと、誰かを分けたい。誰かと許せない行為を紐づけない。その人は許す、いつかは許す。でもその行為は許せない。忘れることもできない。それはまた、別の話で切り分けて持っておけばいい。

 

された行為は残り続けて、それを許せる日が来るのかどうかわからないけど、それをした誰かとの紐づけは外れるから、その誰かをもう恨むこともない。嫌いにもならない。

 

こんな面倒な事をせずとも、許せる穏やかな人間になりたい。

人付き合い

どれだけ好きで合うと思う人でも、100%合うって訳でもない。そして、好きであればあるほど、合わない時の違和感を強く意識させられる。普通の人なら流せるそれが、好きな人ほど引っ掛かかる。些細な事でも圧迫し続ける。

それに上手く向き合えなくとも、逃げられない。都合よく忘れたつもりでいても、必ず後で復活してくる。それも利子を付けて。気が付いたら手に負えなくなって、最後はその人とのつながりが無くなっていることさえある。好きな人程流せない。つながり続けるのは大変。

 

楽に自然に長く続く人は、程々に好きな人が多い。好きだけど、嫌いなところも相応にあるような人。好きが7でも、嫌いも3ある人。こういう人の合わないは、嫌いに寄せてしまえる。合わないを、嫌いの3に押し込める。流せるの正体はこれかなと思う。気が付いたら、輪に加わってくれているのは、こういう人が多い。

 

流せるは、許せるにつながる。流せるから続き、許せるから続く。

人付き合いは、どれだけ自然に合うかじゃなくて、どれだけ自然に許せるかに掛かっている。

 

好きで合う人よりも、程々に好きな人といる方が、楽しく穏やかに、多くの人に囲まれた生き方が出来そう。でもそれだけも侘しい。長く続かない可能性を受け入れて、好きで合う人とも、つながっていたい。

 

結局よくばりなのかなと思う。でも人付き合いは、それでいいとも思う。

自分に優しく生きたい

人間、何時も優しくいられるわけでもないし、何時までも優しくいられるわけでもない。優しくなれない自分に向き合わざるを得ない時に、どう生きるのか。

 

優しくなれない事実を受け入れ、それが自分と割り切り、優しくない自分を背負い進むのか。無理をして、優しくない自分を無理やり捻じ曲げ、優しい自分を演じるのか。

 

前者で生きるのはとても勇気がいる。周りの目を全く気にならない人もいないだろうし、下手したら優しく無い評価が、後々迄引きずる。でもそれを超えたら、生きるのが楽になる。自分の中に、「嫌な自分」も含まれることを認めるのは、後ろめたさがない。正直な気持ちで生きるのは開放的になれるし、嘘偽りのない自分で生きるのは気持ちがいい。

後者で生きるのは簡単というか、自分を殺せばいいだけなので一見楽。「いいよ、いいよ」で済まし、本当ではない自分を押し殺す。優しくない自分に、気が付かない振りさえする。でもそれは、自分で自分に嘘を付いたという、毒を呑むようなもの。良い人を演じるのは時に毒であり、その毒は後々効いてくる。簡単に解毒も出来ない。自分を裏切る、嫌な自分に向き合うのはとても酷。

 

優しくない自分に相対したとき、何時も何とも言えない気持ちになる。罪悪感とも少し違う、何とも言えないあの感じ。

 

もう毒を呑むのをやめようと思う。素の優しいと、演じる優しいの割合なんてわからないけど、何時も何時までも優しくいるのが辛くなった。

自分に優しく生きたい。自分に優しく生きる方を優先したい。そうやって生きる方が、優しさを出せる場の数は増えるような気がする。優しさの質も上がるような気がする。

 

何時も他人に優しいより、何時も自分に優しくいる。

善悪は二輪なのか?

一個人としての、人としての善悪の感覚と、仕事上の善悪の感覚ってちょっと違う。

 

「法律」「倫理観」「フェアで対等」は、プライベートだろうが仕事だろうがどちらも同じ。でもその先にある善悪の感覚は、仕事とプライベートでちょっと違う。

違う方が良いと思う。プライベートの善悪の感覚を仕事に持ち込んでも駄目だし、逆もそう。

そうすることで、プライベートと仕事を分けることが出来る。違う事を理解し、尊重しているからこそ、仕事もプライベートも上手くいくと思っている。それが正しく、あるべき姿だとも思う

 

善悪の輪は二つで両輪なもの。大きな一つの輪にならない。する必要もなく、するのは悪手。それが根にあるからこそ、仕事ではプライベートに関係無くマシーンになれたし、仕事の基準とはまた別で、自由でわがままで、いい加減な私生活を持つ人でもいられた。

 

ここ数日、仕事において、特別な事情で追い込まれることになった。その時、当たり前にできると思っていた、仕事とプライベートを分けるという事ができなかった。

 

組織の問題であり、人としての俺がミスをしたわけではないのに、一個人、人としてのそれ、プライベートの俺の中にある善悪の基準が、仕事の俺の中に出張してきた。一個人の罪悪感が、仕事の行動に影響を与えまくった。

 

何時もなら、最上位に俯瞰して見ている自分がいて、何をして、どう身振り手振りを入れ、何を言っているのか理解しながら、コントロールしながら動いている自分がいる。でも今回はそうはいかなかった。

普段、仕事上ではマシーンなので、法的に倫理的にフェアな対応をしていれば問題なかった。ただただ、事実とその状況によって、相手と此方、話を進めればいい事であった。

でも、個人的に持っている罪悪感が邪魔をして、自分で自分をコントロールできなくなっていた。

 

俯瞰どころか、汗をかきながら必死でしゃべり、身振り手ぶりを交えていた。自分で何を言い、どう見えているのかすらわからなかった。何をどう言ったのか、どんなゼスチャーを交えたのか、記憶があやふやでわからない。

同席した上司に素直にそれを伝え、客観的に見てどうでしたか?と聞いたぐらい。全く問題なく、上手く収めてくれたと言われて、初めて安心できた。

それでもその時、本当に上手く収めれたのか、何処か心配でもある。

 

あの時、善悪の感覚が重なってしまったせいで、仕事とプライベートを分けることが出来なかった。言葉を変えれば、全力で必死で、一切の余裕もなく、仕事人として、組織に所属する一社員としての発言と行動ではなく、一個人、俺としての罪悪感からの、発言と対応をしていた。

 

仕事として、プロとしてどうなんだろうか。

一個人としての罪悪感を交えて話をしてしまったことに、また違う意味で罪悪感を覚える。

 

そんな自分をどうなのかなと思ったし、プロとして失格ではとも思ったけど、愚痴を吐いた人から、「そういう風に思えるお前だから、お客様に信頼されるんだ」と言ってもらえて救われた。

 

善悪は、プライベートだろうが仕事だろうが一つにした方がいいのか、分けない方がいいのか、迷ってしまった。

 

結論は出ない。