書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

出世できない 話

「これが日常的に出来るようになったら、俺も出世したな~」と思える、指標みたいなものを、30過ぎた辺りから意識し始めた。幾つかあって、そのどれもが凡そ欲に絡むことでもあり、恥ずかしいので基本誰にも言わない。そんな指標達も、おかげさまで幾つかはクリアしてきた。ただ、今後もずっとクリアできないと悟った指標もある。

 

「食べたいものを、値段で決めない」

 

これはどれだけ成功したとしても無理なんじゃないかと。残りの指標全てをクリアしても、最後の最後まで俺に立ち塞がってくる事を確信している。

 

好きなものを食べれないという意味じゃない。食べたいとわざわざ意識したものは、余程ふざけた価格でなければ、値段に関係なく食べている。どこそこの何々が美味しいと聞けば、それを食べに行く。それが外国の超高級店とか、そういう非常識なハードルでも無ければ、幾らだろうがそんなに気にならない。本当に食べたいのであれば、交通費や時間をかけても食べようとするし、食べれるし、食べている。もっと言うと、高い安いは関係ない。片道2時間かけて、300円のかけうどんを食べに行った事もある。

 

そういうんじゃなくて、特別食べたいものがある訳じゃない、なんでもいいやって時がある。でも、カロリーメイトでもカジっとけにはならない。そうはならない。だから何かを選ぶ。何でもいいんだけど、強いて言うならこれかな...的な。そこで選ぶ時の話。その選ぶ時、値段からの干渉を跳ね除けれるのって話。

他の人はどうなのか知らないけど、絶対に意識させられる。100円とか200円とかの差を見て、頼むものが変わる可能性がある。1,000円超えるか超えないかなんて時は、心の中で世界大戦勃発。両軍総攻撃。最後の一兵まで激戦を繰り広げつつ、大抵安い方が競り勝っている。

 

ここで200円とか1,000円を超えて、食べたいほうを選ぶ。普段のどうでもいい日常で、ふらっと何かを食べる時、値段が一切干渉してこない。メニューを見ても、数字が目に入らない。写真とメニューの名前のみが目に入り、頭の中の国際連合で、自由で制約の無い、忌憚なき議論が始まる。平和な世界で、軍隊なんて出てこない。銃声一発聞こえない。実に民主的。そしてウェイターさんかウェイトレスさんに、「何々です」と軽やかに告げる。値段は店出る時にしか出てこない。値段の大小とか関係ない、100円の単位とか、4桁とかどうでもいい。数字本来の意味が、俺には影響を与えない。記号レベル、俺にはノンダメージ。最後も、スマホの電子決済の結果すら見ない。これ。そういう話。

 

こうなれたらが「出世したな~」の指標の一つで、どうにもここをクリアできそうにないと悟った。この先、まかり間違って大成功しても、100円、200円安い方を選んでいそうな気がする。

 

出世の道は険しい。

頭の良さと野性

筋道立てて書いてあるし、論理的にも破綻していない。おかしな所も無いから、流れるように頭の中に入ってくる。内容もポジティブで、誰も傷つかない。なので正しいように思うけど、理屈の範囲とは違う何かで、自分には受け入れられない。世間では正しい、素晴らしいと、大いに受け入れられるかもしれないし、それに対してどうこう言うつもりも無いけれど、自分の中に限っては、「野性」でこれは正しくないと思える。あるベストセラーにもなった本を読んでいて、最後にそんな感想を持った。

本当は理屈上でも理由があるのかもしれない。頭が良くないので、突っ込むべきところとか、矛盾点がわからないだけなのかもしれない。でもベストセラーにもなって、一定数の人がその考え方で生き方も変えているんだから、仮にそうだとしても、少なくとも大多数の普通の人にはそこに及びつかない。

 

あまり頭がよろしくないと、理屈では納得できても、野性からくる感覚を優先しがちな生き方をする。その違和感を解消する理屈はわかる、でも受け入れて、それを自分の価値観とするかどうかはまた別みたいな。今回の俺のように、認めるし反論もしない。そして理由も論理的に説明できないけど、そういった考えや行動を、自分に関しては認めない。

これが良い意味で、中途半端に頭が良いと、理屈で通っているしこれが正しいと、パッとそっちに切り替えが出来てしまう。勿論、そっちの生き方の方が多くの正解を選べるだろうし、後の成功につながり易かったりもする筈。

でも、頭の悪いサイドの嫉妬と認めた上で言わせてもらうと、そういった頭の良い人を見ていて、脆さというか、危うさも感じる。宗教や詐欺にハマる人って、意外とそんな、ちょっと頭の良い人が多いように思う。

頭の悪い奴は、理屈じゃなく本能で避ける。野性的に上手く避ける。「わかる 正しいんだと思う 『でも』そんなわけないでしょ」って。中途半端に頭の良い人ほど、コロッと理屈で落とし込まれる。理屈が通っているから、その通りにハマる。ここで言う、野性の感覚自体が衰えているのか、感覚そのものを無視するのか。なんかおかしいと思っていても、理屈と感覚、感覚を取ろうとする、野性に頼る自分が嫌なのかもしれない。

マスコミの報道とか、本の中の話だけでなく、身近な友人関係の中ででも、ちょっとおかしい価値観で盛り上がっている集まりとか、詐欺にハメ込まれて、エラいことになってしまっている集まりを知っている。その2つが重なってしまった、地獄のような集まりすらある。どの集まりも、俺よりずっと頭の良い人ばかりが集まってる。

 

頭があまりよろしくないのはコンプレックスではあるけど、「理屈では正しいと思いますけど、それは俺の中では違っています だからNo」と言えるような野性を消したくない。消えるぐらいなら、頭良くならなくてもいい。

 

中途半端じゃない、ガッツリ頭の良い人になれるなら、それに越したことは無いけど。

めくる癖

良い事であれ、悪いことであれ、物事って片面だけでなく必ず裏がある。良いことの裏は悪いことで、悪い事の裏は良い事。どっちかの一面だけなんてありえない。古典中の古典な教えでもあるけど、それは本当のことだと、今までの人生経験で言い切れる。めくったら、もう片面がある。

 

どれだけ好きなものを手に入れようが、対価としてお金は減る。タダで手に入ってても、後に金以上の対価を払わないといけない事になりがち。好きな人と付き合えても、失う怖さがそこから生まれる。いざという時の絶望感のエグさよ。仕事で大きな成功をしても、次からは期待が上がって苦しくなる。それ以上の成功を収めないと褒められない。

手に入れられなくても、憧れる気持ちを持ち続け、希望を持ちながら生きることの方が幸せかもしれない。手に入れたら入れたで、「あれ、こんなもんだったっけ?」って、冷めた経験は幾らでもある。振られたからこそ、もっともっと自分に合う人と出会う、マッチングのガチャガチャを回そうとも思える。当たりが出るかは別の話。仕事で大失敗したとしても、悔しさと学びで、もっとデカい仕事で最高の成果をだせるかも。失敗のマイナスが大きい程、成し遂げた感は自他ともに大きくなる。大変お得。

 

起きた事実からは逃げられない。でも事実の受け入れ方は二通りある。表と裏の二通りあって、一面しか見ない人生は薄い。もう片面、めくって裏も見たい。特に辛い時はめくりたい。起きた事実の一方の面だけを受け入れて、凹んだ気持ちで生きていくより、それを埋める真逆の面も受け入れる方が自分に優しい。

悪い面、辛い面の時は、ショックでその面でしか考えられない、もう片方の裏の解釈をするには時間がかかる。それはしょうがないにしても、最初に受けた面の裏には、反対の面がある。絶対にあることを忘れない。最初の面だけでない、めくる癖と、もう片方の面を語ることのできる、無理くりの想像力を養っておく。

 

絶望する機会が、随分減る筈。

トロイカ体制

手書きとタイプ。メモだろうが何かの考え事だろうが、同じテーマで書いても、不思議と同じことを書いていない。同時に書いてないし、先に書いたどちらかに影響を受けた上で、無意識で違うことを書こうとしているのかもしれないけど、理由なんかどうでもいい。書く手段を変えれば、違うことを書いている。PCやスマホで書いたものと、ノートにボールペンで書いたことは違ってる。真正面から反対の意見になることは少ないし、結論としては同じことに落ち着くことが多いけど、違うことや違う過程を書いているのは、不思議であり面白い。

 

自分の中に2人の書き手がいて、「僕は手書きで、姿だしておきます」「じゃあ私はタイプで、存在感出しますね」って言っているような。手書き君、タイプさん、どちらも、自分の思い感じる、違う見方を出してくれる。どっちも大事で、どっちもありがたい。そして2人が書いてくれたものを、もう一人の今の俺が読んでいる。

頭の中、1人で唸るだけだと、今の自分の考えと結論だけしか出ないけど、手書きをしてタイプをして、その後、今の俺様降臨を経て、3人で話し合った方が、深く豊かに考えることが出来る。君とさんと俺の、3人で会議をしているような感じがする。1人なのにチームで考えている。

まあ3人で話し合えても、正解の選択や行動を選べるかは別。それでも、少なくとも後で後悔しにくい。あそこまで考えましたって納得できる。

 

書く人間、それもタイプと手書きで書く人間は、3つの意見を持つことが出来る。3人で、チームで会議が出来る。書くと人生捗りまっせ。

「じゃあ、また」

大人になってからの、「じゃあ、また」

 

これって、若い時と今では言葉の重みが違う。若い時は大声で喧嘩しようが、深刻な対立になろうが、時間を空けたら本当にまた会えた。

その間隔が、年を取る度に長くなっていく。更には、その喧嘩が些細な程度だろうが、意見や価値観の違いに近いものだろうが、「じゃあ、また」にならず、そのまま縁が切れるようなこともでてくる。

 

その場はお互い大人な対応を取ったとしても、人として、互いにそれなりの年月を生きてきた大人であり、そんな大人が吐いた言葉や行動を、表向きはどうあれ、そう簡単に無かったことには出来ない。責任とか、そんな大層な話を持ち出すまでもなく、それが普通な気もする。「じゃあ、また」がただの言葉のやり取りで止まってしまって、現実に叶わなくなることが増えるのも、ある程度はしょうがない。

勿論残念だと思う。でもそれを恐れて、言いたいことを言えない、表現したいことを表現できないのなら、その人と会う意味が無い。そんなのを恐れるくらいなら、最初から会わない。その上で、今から会う人とはこれが最後かもという緊張感を持っておきたい。「じゃあ、また」が無かったことになるリスクが限りなく低いとしても、それは確実にあり得ることだという覚悟を、どこかに持っておきたい。

 

お互いに、引き金の言葉や表現がNGなものだったなんて、その時は想像できない。地雷を踏むような感じ。そういう予期せぬ地雷のようなものを炸裂させ、後で気が付き反省し、その次が無いことを受け入れる。相手からもだけど、どちらかと言うと地雷を踏んだ自分の方からもういいなとなる。大人は地雷を踏んだら終わり。

地雷を踏みたくないし、踏まないように注意はする。でも地雷が全く無い道の先に、面白い交わり合いがあるとも思わない。当たり障りのないやり取りよりも、互いに切り込みあう方が濃い時間になるに決まってる。何のリスクの無い会話や やり取りから、大きな見返りが得られると思う方が、ムシがよすぎる。

 

地雷を除け続ける努力を尽くしながら、それでも時には踏んむんだろうし、嘘の言葉にしてしまう。悔やみ、反省し、縁が切れる。残念だけどそれはそういう縁だった。また違う人に会いに行けばいい。

 

「じゃあまたね」が嘘の言葉になるのを恐れない。そうやって、少しずつ人生を豊かにしていきたい。

ジャンプと漫画と退化した俺について

年に2,3回「ジャンプ読んでないな~」って思いを馳せる時がある。ジャンプどころか漫画雑誌自体、もう何十年も読んでない。当時ジャンプって確か170円ぐらい。200円しなかった。200円しないのに、あれだけワクワクさせてくれたのも凄い。

学校の話題の中心には、何時もジャンプの連載漫画があったし、ドリフとひょうきん族とジャンプが、学校での話題の8割ぐらいを占めていた。そんな皆の心鷲掴みのポジションを持ったものが、たった170円。子供の小遣いからの170円だから、今の価値観の170円とは違うけど、それを考えても安すぎる。あの興奮と楽しさをくれるなら、今なら1冊5千円ぐらい払っても惜しくない。

 

漫画って今でも面白いんだと思うけど、読まなくなった。正確には読めなくなった。同世代でも、ちゃんと大人の趣味として、漫画を楽しんでいる人が結構いる。頭も柔らかく、接していて楽しい人が多いイメージ。漫画を今でも嗜める人は、知的な人の方が多いように思う。漫画を楽しめない今の俺は、随分損してるように思う。

そんな事を話すと「面白い漫画を読んでないだけだよ」って言われる。是非読んでと、お薦めも教えてもらえる。多分そうなんだと思う。でもそうだとしても、手に取ってページをめくろうとする意欲すら沸かないから、どうしようもない。漫画の魅力の大きな部分を占める絵が、今の自分には刺激が強すぎる。好きなように自分で想像できる、文字で書かれた本の方が楽に思える。子供の頃と反対なのが、自分でもおかしい。子供時代、「漫画なんて読まずに本を読め」と怒られまくったけど、本当にそうなってしまった。お父様お母様に、今度は逆に、「本など読まずに、漫画を読め」と怒られないといけないのか。

漫画にワクワクしたあの気持ちを、もう一度味わいたい。ジャンプを手に取った時のずっしり感に満足し、あの色付きのロール紙とインクで、手を黒く汚したい。捨てずに取っておいて、宝物のようにうず高く積み上げたい。気が付いたら親に捨てられて、泣きながら怒りたい。

 

漫画を楽しめなくなった。この意味で俺は凄く老いてしまったように思う。ちょっと悲しい。

児童書からの生々しさ

友人からお勧めの本を借りて読んだ。子供向けの児童書で、変に凝った言い回しも無いし、普段読んでいる本よりも、楽にさっと読めた。お薦め通り楽しかったし、たまたまその時は、人間関係にちょっと疲れていた時期でもあったので、いい癒しにもなった。

児童書と書いたけど、読んだのは文庫版で、ある程度、大人も読むことを想定もされているようだった。そして巻末にある著者のあとがきには、「この物語で本当に書きたかったのは…」と、裏のテーマが書いてあって、それが今の自分の疲れている理由と、それに対する心の持ち様のアドバイスそのものでもあった。そのテーマに沿って内容を解釈すると、大人向けの諭しの物語でもあり、ちょっと感動してしまった。勧めてくれた人にお礼を伝えたら、別に深い意味はなく、子供のころ好きだった本をただ挙げただけと言っていたけど。

 

本を通して繋がりがあり、本の内容で話が出来るのは楽しい。本をスタートに、価値観を語り合えることが嬉しい。俺の持たない価値観、知らない価値観の世界に触れることができるのは幸せ。本を軸にコミュニケーションが取れるって、素晴らしいと思う。

本を通じた繋がりは、知的で品のあるようでいて、どちらかと言うとお互いの本音とか、その辺から出る、生々しいやり取りにもなる。でもそこがいい。その生々しさがいい。

 

本を通して、コミュニケーションの取れる人を増やしたい。ただ無理に広げるのもちょっと違う、募集して集めるとかじゃない。そんなんなら別に繋がらなくていい。自然と、本を軸にした人の繋がりが出来たらなと思う。そんな生き方をしていくのが、人生残り後半、幸せに生きる一つのコツかもしれない。