書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

頭の良さと野性

筋道立てて書いてあるし、論理的にも破綻していない。おかしな所も無いから、流れるように頭の中に入ってくる。内容もポジティブで、誰も傷つかない。なので正しいように思うけど、理屈の範囲とは違う何かで、自分には受け入れられない。世間では正しい、素晴らしいと、大いに受け入れられるかもしれないし、それに対してどうこう言うつもりも無いけれど、自分の中に限っては、「野性」でこれは正しくないと思える。あるベストセラーにもなった本を読んでいて、最後にそんな感想を持った。

本当は理屈上でも理由があるのかもしれない。頭が良くないので、突っ込むべきところとか、矛盾点がわからないだけなのかもしれない。でもベストセラーにもなって、一定数の人がその考え方で生き方も変えているんだから、仮にそうだとしても、少なくとも大多数の普通の人にはそこに及びつかない。

 

あまり頭がよろしくないと、理屈では納得できても、野性からくる感覚を優先しがちな生き方をする。その違和感を解消する理屈はわかる、でも受け入れて、それを自分の価値観とするかどうかはまた別みたいな。今回の俺のように、認めるし反論もしない。そして理由も論理的に説明できないけど、そういった考えや行動を、自分に関しては認めない。

これが良い意味で、中途半端に頭が良いと、理屈で通っているしこれが正しいと、パッとそっちに切り替えが出来てしまう。勿論、そっちの生き方の方が多くの正解を選べるだろうし、後の成功につながり易かったりもする筈。

でも、頭の悪いサイドの嫉妬と認めた上で言わせてもらうと、そういった頭の良い人を見ていて、脆さというか、危うさも感じる。宗教や詐欺にハマる人って、意外とそんな、ちょっと頭の良い人が多いように思う。

頭の悪い奴は、理屈じゃなく本能で避ける。野性的に上手く避ける。「わかる 正しいんだと思う 『でも』そんなわけないでしょ」って。中途半端に頭の良い人ほど、コロッと理屈で落とし込まれる。理屈が通っているから、その通りにハマる。ここで言う、野性の感覚自体が衰えているのか、感覚そのものを無視するのか。なんかおかしいと思っていても、理屈と感覚、感覚を取ろうとする、野性に頼る自分が嫌なのかもしれない。

マスコミの報道とか、本の中の話だけでなく、身近な友人関係の中ででも、ちょっとおかしい価値観で盛り上がっている集まりとか、詐欺にハメ込まれて、エラいことになってしまっている集まりを知っている。その2つが重なってしまった、地獄のような集まりすらある。どの集まりも、俺よりずっと頭の良い人ばかりが集まってる。

 

頭があまりよろしくないのはコンプレックスではあるけど、「理屈では正しいと思いますけど、それは俺の中では違っています だからNo」と言えるような野性を消したくない。消えるぐらいなら、頭良くならなくてもいい。

 

中途半端じゃない、ガッツリ頭の良い人になれるなら、それに越したことは無いけど。