書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

ブルガリア

 

ちょっと前に、出張でブルガリアへ行ってくれないかと相談を受けた。ただ打診された日程に、どうしても外せないプライベートの予定があり、悩みながらもそちらを優先した。元々旅行があまり好きじゃないし、失礼ながらそう興味を感じないブルガリアに行くことは、今後も恐らくないだろう。

「本物」のブルガリアを知る機会だったのに逃した。ネットや本、伝聞で知っている、二次的に知っているブルガリアも嘘じゃないんだろうけど、物事は自分の目で見て体感してこそ「本物」という感覚があった。

とは言え、そう思う気持ちに少し違和感もあった。

自分の目で見て、体感したものこそが「本物」という感覚は間違ってはいない。でもそうじゃないものは偽物なのかと言われたら、それはそれで違うんじゃないか。

未来の事は分からないので、今後ブルガリアに行く可能性もゼロではない。でも極わずか。じゃあ俺にとって、ネットや本、伝聞で知っているブルガリアが「本物」のブルガリアということでいいんじゃないか。ブルガリアに関して、二次的な関係以上を持たないと決めたのなら、もうそれが俺にとっての本物のブルガリアという事でいい。誰か他人に、したり顔で語るほどの奢りを持たないのであれば、それでいいと思えた。

 

物事や現象に対して何が「本物」かどうかは、その対象とどう向き合うかで変わるように思う。直接知らない。会ったことも、触ったことも、行ったことも無い。自分の知りえる情報は、誰かから伝え聞く二次的なものだけ。でも関わり合い方からして、それでいいとなれば、自分の中だけに限り、それが本物であり、真実ということでいい。その物事や現象の世界が自分の中だけで終わるのならそれでいい。そういう捉え方をしていれば、知ったつもりになって他人に干渉して面倒なことになったりもしないだろう。

そして、自分に限っては本物、真実と一旦区切るからこそ、何らかの機会で直接知る、触れてみる機会が生まれた時、言い換えると一次的になる機会を得た時、二次的で得た「自分だけの本物や真実」を綺麗さっぱりリセット出来、新しい本物、真実を知り、受け入れることができるんだとも思う。

二次的、一次的と変わる事で、また「本物」の捉え方が変わる。本物って相対的に変わるもの。そう思うようになればなるほど、やっぱり直接見る 触る 行くことの価値の大きさにも、重きをおくことが出来る様にもなってきた。

 

やっぱり行けばよかったのかもな。ブルガリア