書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

お利口じゃない休日

休みの日なのに、お利口に計画と予定を立てて、遊ぶこと、やりたい事にも時間を決めて、始まりと終わりを意識している。平日と同じように律義にスケジュールの線を引き、ここからここまではアレをやって、ここからここはアレをやると決め、凡そその通りにこなし1日を楽しむ。それが正しいし、効率的に休みを楽しめる過ごし方だと確信もしている。でも言葉に出来ない、もやっとしたものを感じる時がある。綺麗に効率的に過ごせたら過ごせたほど、それはそれでなんかもやっとする。

休みの次、明日からまた社会の中で己の役目を果たしてゆくのだから、休みの日でも計画的に過ごし、その役目の準備もする。でも、もっと何もかも忘れて、今この時間はもっと自由でいい筈・・・みたいなやり取りを自分の中で繰り返して、やっぱり最後はスケジュールの線を引く過ごし方を選び、その通りに過ごし、満足してまた眠る。

小学校の中休みの20分は、20分後に授業が始まる事なんか意識しないで走り回っていた。15分遊んでから、5分前に席に座って、次の授業の準備なんかしなかった。そういう、ちゃんとしたお利口な子も沢山いたし、俺みたいなバカも沢山いた。大人になったらバカサイドは消え、お利口サイドに合流、それが当たり前になる。俺も合流できた。何度もそれが正しいと思うし、自分にもそう言い聞かせるけど、それでいいのかという思いが、極たまにチラっと出てくる。それが間違っているとは思わないけど、それだけが正解だとも思えない。

野生的、原始的というか、元々いい加減な人間なのはわかっている。それを自分に言い聞かせて、普段はちょっと上から、木の上から、野生で原始な自分を操縦している。いい人でも無いけど、悪い人でもないよう生きる事が出来ているのは、俯瞰している自分が、いい加減な自分を悪人にならぬよう操縦出来ているから。でも極たまに、下にいるいい加減な自分が、操縦する自分の目線と並ぶ時がある。そういう時、もう色んな事がめんどくさくなって、当たり前になったお利口を放棄する。俯瞰している自分の操縦を無視して、好き勝手なことを線も引かずにやり始める。飼い犬がリードを外してもらい、自由に走り回るみたいな感じで、好き放題に過ごす。

木の上から俯瞰している自分、飼い主は、極たまの野生で原始な好き放題にとても寛容でいてくれる。そのままどこかに行かない、いつか帰ってくるのもわかっているから、ちゃんとほおっておいてくれる。そのうち帰ってきて、またおとなしく木の下で俯瞰もされるし、リードにも繋いでもらう。お利口の世界にこれで戻る。

そして先週末は、そんな線を引かない休日だった。野生と原始で、お利口を放棄した休日だった。身体は疲れ果てたけど、めちゃくちゃ気分はいい。

 

なんかそんな生き方が嫌いじゃない。規律性とかやっぱりないし、社会で生きるには自分をつくらないと無理な人間。でもしょうがない、そういう人間なので。