人生を登山と考えるなら、同じ山を登っている人はいない。何となく、みんな同じ山だという前提であれやこれや言うけど、各々個別の山、自分だけの山を登っている。しんどそうに生きている人に対して、「もう少し気楽に生きてみたら」と声を掛けようとするけど、一瞬それは適当な言葉なのかと迷ってしまう。相手がどんな山を登っているのかわからないのに、その言葉はちょっと無責任すぎるかもしれない。
「もう少し気楽に・・・」と思う気持ちも嘘じゃないし、悪意も無い。そう声がけを出来る人が優しい人なのは百も承知の上でだけど、そう言える人の山の険しさと、しんどそうに生きている人の山の険しさは多分違う。「相手の立場に立って考える」とはよく言うし、それはとても大事なことだけど、口で言うほど簡単じゃない。同じ歳、同じ性、似たような環境であれど、登っている山が似ているかどうかは別。登る本人の足腰の強さ、岩を持ち、身体を引き上げる手足の強さだって違う。
人は何かを想像する時、自分の目の前にある事や、経験してきた事からしか想像できない。自分の山しか知らないのに、登る力も違うのに、そう簡単に目の前の声を掛けようと思う人の山の険しさと、しんどさなんてわからない。
それを意識したのなら、安易に声を掛けるのはどうなのかなと思う。何も言えないし、何も言わない方が良いのかもしれない。その人の山の事を知らないのに、簡単に何かを言ったら駄目なのかもしれない。
ただそれでも何か一言掛けてあげたくなるし、自分が今苦しみながら登っているのなら、「もう少し気楽に生きてみたら?」と声を掛けてもらいたくもなる。
なんとなく適当に言うそれらと、相手の山の険しさを知らない、足腰の強さも知らないと分かった上で言う、「もう少し気楽に生きてみたら?」は、言葉としては同じでも、伝わる何かが違うと思う。
そう信じたいし、自分が声を掛ける時は、その意識を忘れずにいたい。