書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

人からの正論はいらない

正論を言ってくる人があまり好きじゃない。

 

人と人、物事と物事がリアルで触れ合う時って、その接触面は平らじゃなくて凸凹してる。最初こそ平らで接触するけど、その内両者が上手く組み合い、馴染み、面は凸凹してくる。性別や年齢、立場の違いもあるけれど、単純にそれだけでもない。お互いの性格、センス、考え方、趣味趣向、その他色々なもので凸凹する。同じ凸凹は一つも無いし、その人とだけの凸り方をして、凹り方をしてる。時間と共に、常に変わり続けてもいる。人や物との関係は、その接触面の凸凹を楽しむものだし、その凸凹があるからこそ悩む。

 

正論は凸凹を考えない。まっ平な接触面が前提。なので正論で物事を捉えようとすると、その凸凹をお互い埋めるところから始まらないといけない。酸いも甘いも、今迄の経緯を、全部なかったことにしないといけない。正論は今迄のそういう過程を無視するというか、見ないものとしてある。だから正論だし、「正しい論」が正論だとしたら、それは現実を則してない。その正論を実現させようとする事、そうしようと押してくるのは、今迄のすべてを否定する行為で頭が悪いと思う。ある意味悪質だとも思う。

 

ただし、正論が悪いんじゃない。現実と比較しての「ものさし」としてなら、正論は役に立つ。正論なんて、その凸凹と格闘してるところに、横に沿えて置いて、たまに見るぐらいでいい。ああ、あんな感じがいいんだろうな、でも絶対ああはならないんだろうなと感じるものぐらいでいい。比較して役に立つような流れで正論を言ってくれるのはいいけれど、そこで話を止められても困る。一度できた凸凹を、まっ平になんて本当は出来ないんだし。

 

人からの正論なんていらない。「1+1は2ですよね」って言われてるのと同じなので、そんな事どうでもいい。欲しいのは、こちらとあちらを見て、いつの間にか相手と組み合わなくなった接触面、凸凹を客観的に見て、相手と合うよう、どれぐらい滑らかにすればいいかの塩梅で、組みハマるよう、どれぐらいのエッジを立たせるかの塩梅。

 

という訳で、正論とかどうでもいいです。