書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

親切を教えられる

先日ジョギングに出た際、ものの10分位で、おばあさんに呼び止められた。十中八九、道を聞きたいんだろうなと思ったので、「どうされました~」で停まったけど、足踏みしながら停まった。多分簡単な道案内だと思ったし、それで事も足りると思ったから。予想通り、近くの神社への行き方を聞かれたが、来た駅からは反対の方向で、道を戻り、向かって左に曲がれば10分位で着く。そう説明しようと思ったら、ふと、おばあさんがウチの母親に被ってしまった。母親よりお年を召されてはいるけど、何となく被る。気が付いたら足踏みもやめてて、道順を説明した後、自然と「せっかくなので、ご一緒しましょう」って言って、一緒にその神社に向かう事になった。

 

今迄だったら道順を教えてそれで十分だと思ってた。対応としても間違っていないとも思う。でもそのおばあさんが母親に被ると思ってしまうと、道を教えて「では、これで」という感じにしたくなかった。うちの母親、おやじが外で同じような状況になってしまったとして、そこで出会って道を聞いた人に、どう対応してもらいたいと思うのか。そして子からしたら、親がどういう対応をしてもらいたいのか。それを考えたら、足踏み止めて、一緒に歩いてた。

10分だと思った道中が15分になったけど、その間沢山お礼も言われて、話も色々させて頂いた。この辺りは道も狭いし、古いしで迷いますよねとか、孫の合格祈願で来たんですとか。どっちが一方的に話すという感じでもなく、緩く散歩みたいな感じを楽しまさせてもらった。

最後、鳥居の前まで来て、今日何度も聞いた、最後のお礼の言葉を聞きつつ、足踏みを再開しながら「お気をつけて、お孫さんの合格を祈ってます」と伝え、ジョギングを再開した。じんわりと嬉しく、満たされた時間だった。感謝されたけど、逆にこちらの方がおばあさんに感謝したい。

 

自分がされたいことを、他人にするのは人としての筋だと思う。でもそこから更に踏み込んで、自分以上に自分の大切な人が、他人にどうされたいのかと考えれるか。今目の前で相対してる人が、全て自分の大切な人だと思い、それに応えてあげることができるか。この辺が本当の親切という事なのかなと。

 

親を切るとは書くけれど。親切とはなんぞやを親に教えられたというお話でした。

(親切という感じの由来は「切に親にする、『親しみ思いやることを切に願う』から)