書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

サイコロを振ってる話

ここ10年以上、走り慣れてる近所の道をバイクで走っていたら、自分に向かって車が突っ込んできた。人間、緊急事態に入ったその瞬間、「驚く」という感情が出てこない。そんな余裕もなく、感情も乗せずに、無意識で最適な行動をしている。なので全力でブレーキをかけて、車線変更をしたけど、どう動いたかもハッキリ覚えていない。

その後、意味が解らなくて、ありえない方向を向いて停止してる車を見て、更にもう一瞬間をおいて、唖然としてるドライバーの顔を見て、ようやくそれが逆走車だと気がついた。この道を走ってきて、逆走車なんて初めて遭遇したし、よく考えたら逆走車自体、生まれて初めて見た。この道に入るのがあと3,4秒遅れてたら多分避けれなかったと思う。

自損他損関わらず、バイクや車の事故で命を落とすことを考えないでもないけど、まさか近所でなんて絶対ないと思ってた。

あり得ない事が現実に起きて、初めて「あり得ない事なんて無い」現実を突きつけられる。無いではなく、今回は起こらなかったというだけ。ただ単に99%の「起こらない」を運良く引いただけ。1%の「起こった」を引かなかっただけ。それが0.1%、0.01%、0.001%だろうが同じ。ある。起こる可能性は捨てきれない以上、無いとは言えない。通い慣れた道で、逆走車に轢き殺される可能性は、1%よりも高いのかもしれない。なら今回の事は、全然不思議でも何でもない。寧ろ100回以上は確実に通ってきてるし、今迄運が良かっただけなんだとさえ思える。

運がある事は分かっているけど、自分の意志と努力でできると思えるし、悪い事は起こらない事を前提に生きている。でも世の中には、望む望まない含めて、あらゆる結果があって、行動全てに対して確率のサイコロを振らされてる。

勿論、自分の意志や努力、注意で確率を変化させることはできる。リスクを減らし、成功の率を上げる事が出来る。でもサイコロの確率から逃げるわけにはいかない。逆走車に轢き殺されかけたのは、最悪の結果の目の一つ横の目を出してしまったからか。

しょうも無い事から大事なことまで、人生まさかと思う悪い事が、それなりの頻度で起こる。都度悔やみ、自分の至らなさを責める。それでも絶対は無い以上、自分を責めすぎたり、自他に怒りの感情を持ちすぎるのはどうなのかなと思う。反対の良い事があっても同じ。悪い事、良い事、それはたまたまサイコロの目の要素もあるという事を忘れては駄目とも思う。時に、悪い目を引いてしまったと思えればいいし、時に、良い目を引けてツイてたと思えれば。

結果に後悔したり、喜んだりしたらダメという訳でも無いし、それを無くしたら向上心も肯定感も無くなる。無味乾燥な人生は面白くない。でも何処か少し、サイコロの事を忘れたくない。

そこに逃げたり、そこに希望を乗せるぐらいの弱さが人間あってもいいのかなとも思う。