書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

畑の土

誰かのアドバイスやお勧めを受け入れる時は、その人の頭の中にある「畑の土」を、分けてもらうものと考えている。

頭の中の畑とは、思考とか感情のベースであり、自分の発言や行動は、そこで育つ花とか果実のようなもの。人はそれぞれ違うんだから、畑だって各々違う。違う畑の土が同じはずもない。自分ならまずしないであろう選択や価値観なほど、そんな意識を強くする。違う土の持つ違和感は、心地良いということは少ない。どちらかと言うと、苦いような感じに近い。違和感は土の合わせ方でも違ってくる。自分の土に混ぜてしまうのか、畑の上から軽く蒔くのかでも違う。でも、どんな土であっても、どんな合わせ方であっても、そのうち馴染み、他人の土が自分の土となり、違和感も消えていく。

そうやって畑の土が変わると、取れていた成果物も変わる。同じように種を植え、花や果実が実っても、今までとは違うものが出来る。

発言や行動や選択が変わる。成長とか進化とか、そういう前向きな変化の時もあれば、その逆もあるかもしれない。どちらにしても、変化したというのは意味のあることだと思う。

 

自分の価値観やポリシーとか、そこからの選択を大事にしたいけど、それだけだと面白くない。何時までも同じ土、同じ畑なのは、人生損していないか。他の人の畑の土を入れて、畑で取れる花や果実をもっと多様なものにしたい。

中々意固地な自分ではあるけれど、素直に人のアドバイスやお勧めを受け入れるのも、必要な事なのかと思う。

悩める人

悩み事が多い自分がたまに嫌になる。人が気にしない、気が付かないことに気が付いて、勝手に悩んでる。それに対して、行動を起こしたり起こさなかったりもするけど、行動したところで、周りに影響を与えないことも多いし、気が付かれないことも多い。たまに誰かにそれを話しても、「そこまで気にしなくていいんじゃない?」で終わる。でも俺はそこが気になるから悩む。共感して欲しいとは思わないので構わないけど、損な性格かなとは思う。

 

でも悩みが多いってことは、それだけ物事に真剣に向き合っている証拠なのかもしれない。気になる、そこから悩めるのは、真剣だから。

悩まない人を馬鹿にするつもりはないけど、よく言えば楽天的、悪く言えばいい加減。こっちは楽天的じゃないけど、いい加減じゃないという事。それで少しだけ自分を慰める。

 

悩めるって、それだけその物事が大切だから、愛してるから、真摯に向き合っているからこそ悩める。それだけ真剣だし、目の前のことにハマれているから悩み、悩み尽くせる。素晴らしき事。大いに悩め。悩みすら大いに楽しめ。悩めるということは、それだけ真剣に思えているということは、俺にとって幸せな事。

悩める自分を認めて肯定、そしてそんな自分を愛す。

 

生きやすさは負けてるかもしれないけどな~

ハマるタイミング

ちょっとしたきっかけがあって、昔大ハマりした趣味にまた力を入れてみようとなった。せっかくなので、道具も新調しようと思い、その道の専門店に行った。離れていた訳でも無いけど、逐一追いかけていた訳でも無いので、今の流行りとか新製品も見れて面白かった。でもなんとなく、今のその趣味との距離感をハッキリ意識もさせられた。

ハマっていた時は、当然の流行を逐一把握していたし、それに乗る時もあれば、自己流を求める時もあった。少なくとも、その世界の王道を含めた流れを知った上で自分は楽しんでいたし、当然新製品なんかも販売前、発表前から知っていた。専門店に来ても、わかっていながらお店の中を歩いていた。昔は確認的な、「はいはい、そうだよな」って感じで棚を見ていたのが、今は「へー、こんな感じか」とか、「こんなの出ているんだ!」という感じ。ハマっていた時と今は違う。俺の中で、その世界はハマっていた当時で止まっているけど、当たり前ながらその世界は世界で動いている。それを少し寂しくも思った。

 

同時に、あの時この世界にハマれてよかったとも思った。今初めて出会ったとしてもハマれていない気がするし、少なくともあの当時ほど、熱く奥深くハマらなかったはず。ハマったから知った世界もあったし、喜びもあった。やるだけやった自己満足感もあれば、他人と比べた優劣からの葛藤や高揚もあった。それはその世界にハマれたからこそ得られた部類のそれであって、他の趣味では得ることが出来ない。どんな世界でも、自己満足や他者比較からの感情の揺れはあるだろうけど、中身はそのハマった世界によって違う気がする。あの時ハマれたからこそ、得られた価値観。それで今の自分がある。

何かのきっかけで違う世界に興味を持ち、そこにハマって、また今とは違う価値観をえられていたかもしれない。その分、現実の自分が若い時にハマった世界には飛び込めなかっただろうし、今持っている価値観も得られない。どんな世界なら、どんな価値観を得られたか興味もあるけど、ただのIFの話以上にはならないだろうし、それを残念がる必要もないか。

 

何かの趣味でも物事でも、ある世界にハマる=自分の時間と意志力をかけるのは、それにふさわしいタイミングというのがあるように思う。若い時だからこそやれる世界があって、そこで得られる喜びと価値観がある。勿論逆もあって、若い時には全然興味が無かったけど、大人になったからこそハマる世界、そしてだからこそ得られることもある。

人によって興味を持つ世界は違うし、その興味を持つ時期も違う。ただ、どんな世界であれ、どんな時期であれ、飛び込もう、ハマろうと思ったら、今そのタイミングが一番飛び込むべき、ハマるべきタイミングなのだと思う。思ったときにやる。多分それがその道で何かを得る、一番向いているタイミングなんだと思う。

使える時間とか、お金とかも大事だけど、一番大事なのは、その巡り会わせと自分がやりたいと思ったタイミング。だからやりたいと思った気持ちを抑えるのはやめた方がいい。もっと時間が出来てからとか、もっとお金に余裕が出来てからとか、そういうのはやめた方がいい。その辺は何とかなる、そんな事より、今すぐ全力でやるべき。得られる喜びや高揚は、そのタイミングの時とそうじゃない時で大きく大きく違う。

 

あの時あの世界にハマって良かった。あのタイミングだったから、飽きるほど突き詰めてみることが出来た。今はあの頃と同じような熱さは無いけど、余熱みたいなのは残ってる。あれだけハマれたから余熱があった。今はその余熱で充分。またあの世界を楽しませてもらおうと思う。

蒸発現象

「蒸発現象」という、此方と対向車のヘッドライトの光が重なる部分が見えなくなる現象がある。交差点で止まっていると、たまに横断中の人が消えるのがこれ。人間の視覚的に見えなくなるため、根本的な対処方も無く、物の本にも回りくどい言い方で「気を付けるしかないよね」的な事しか書かれていない。

幸い運転中はほとんど遭遇しない。夜間、車が行き交う車道の真ん中に、人や自転車がいるってそうそう無い。でもそれに先日出会った。30年近く運転してきて、運転中の蒸発現象が初めてとは言わない。でも数える程の経験だったそれが1つ増えた。あと5キロ速度が違っていたり、よそ見をしてたら、轢き殺してたかもしれない。

 

教科書的なことを言えば...

こちら、制限速度以下で、常に何があってもおかしくないよう、あほみたいに警戒しながら運転。

歩行者、夜間出る時は明るい色の服(轢き殺されかけた方は上下真っ黒)、出来れば反射材付きの服。

対向車、もし気が付いていたらクラクションを鳴らす。

でもそんなのただの理想論。

 

此方はほぼ制限速度、歩行者だって自殺志願で飛び出してきたわけじゃないし、偶然その瞬間すれ違った対向車だって当然無罪。三者とも教科書通りではないけど常識の範囲。車道を横断すな、そもそも横断歩道渡れやとは言いたいけど、普通にありえる、想定内の行動、許される行動。だから誰も悪くないし、誰に対しても文句言うつもりも無い。

 

ただ、誰も悪くないのに、誰かが轢き殺されていたかもしれないし、俺は殺人者になる可能性もあった。これってなんなのだろうって。なんなのって、運なのだけれど。

真面目な人には怒られるかもしれないけど、運が良かったから轢き殺されなかったし、轢き殺した犯罪者は生まれなかった。運で殺されるなんて、シャレになってないんだけど、運で人を殺すのもシャレになっていない。

 

車の運転じゃなくてもこういう事はある。死まではいかずとも、何かの運でとんでもなく不幸な流れになったり、引いては人生狂わされたり。自分の意志、何かの判断、取った行動でそうなるならまだ理解できるけど、「それ、こっちは何もしてないし、関係ないんですけど」ってことで、人生予期せぬ方向に進んでいく。反対に幸せな方向に進めてくれることもあるんだろうけど、それは勝手に自分の力、手柄にしちゃってるから気が付きにくいだけ。それなら、不幸なことを運のせいばかりにするのもフェアじゃないって思わなくもないけど、ただまあ、どっちにしろ運はあるよねと。

 

人生、たまにこうやって、運で動かされていることを知らしめされる。豪快に導き、時に強烈に干渉してくる。順風満帆、自信満々、我こそ覇者なりな生き方の鼻をへし折られる。でもたまにへし折られる方が、人生多少なりとも臆病になれて、驕らず、慎重に生きることが出来るからいいのかもしれない。最近、調子に乗っていたなと受け入れる。運を拒否はできない。

 

なんかどうしようもない運で俺がここまで生かされてきて、今これからも、その運に少しの自己努力を重ねて生きていく。

 

蒸発現象で人殺すなんてほんまに勘弁。運が良かった。

面取りとか服装とか、そういうめんどくさい話

人に文章を投げるには、投げる相手に伝わるように書かないといけない。そこには礼儀だってある。でもそこをかしこまりすぎると、伝えたいことが減衰する。時に一番伝えたい、温度感みたいなものが伝わらない。

単語の意味が、全人類共通の感性と価値観ならいいんだけど、そうじゃないから文章にしてあれやこれや説明する。美味しいだって、こう美味しい、これぐらい美味しい、これぐらいってどれぐらい?みたいに、言葉を数珠つなぎに発し続けて文章を紡いでいく。文章は文字で伝えるから、はっきりとした形で表れる。「文字=形」であらわすから逃げられない。読む人全員、解釈は違えど同じように読める。会話と比べたら、文章は凄くデジタルな気がする。

文章は会話以上に気を遣う。感情と思惑にまみれた意志を、そのまま投げる事なんてしない。尖っているところを面取りし、滑らかにして、自分なりにこれで良いかと推敲する。会話は音で、見えないから裸で送り出してもごまかせるけど、文章だとそうはいかない。相手に合わせた、他所行きの服を着せて送り出す。相手がカジュアルな服装の奴ならジーパンを履かせ、先生相手ならスーツを着せる。表現する形容する単語のチョイスにも気を遣う。

そうやって、気を揉みながら文章を書くことは大事だと思うんだけど、だからといって、願い通りに伝わるとも限らない。面取りし、削ぎ落したところにこそ、相手に刺さる何かがあったりするかもしれないし、マッパは流石に駄目だとしても、ジーパンの奴にタキシード着ながら伝えた方が、伝わりやすい場面もあるかもしれない。恥ずかしくないようにする面取りや服装が、逆に大きく意味を損なっている時もあるのかもしれない。

書くと、文字にすると、文章にするとずっと残る。会話のように、言った言わないにはならない。聞こえなかったと逃げられない。聞かなかったことにはできない。一度文章で投げた以上、無かったことには出来ない。かしこまって書こうが、吐き捨てながら書こうが、書いたものには責任が残る。そして書いた以上、読んだ以上、書き手にも読み手にも態度に出る。そう考えると、文章で書いて伝えるって、めちゃくちゃ重たい事なんだと思う。

 

そんなことを全部受け入れながらも、やっぱり会話で伝えるより文章で伝える方が好きだ。ただ好きなんだけど、もうちょっと楽に書きたい。楽に書ければいいんだけど。

何万分の一

家族がある手術をすることになって、付き添いで一緒に説明を受けに行った。聞いた結果、医師でもない俺がこんなことを言っては駄目なんだけど、その手術は比較的簡単なもので、分類上こそ「手術」に値するけど、どちらかというと治療の延長に近いものだと知った。後遺症のリスクは勿論あるけど、何万分の一以下の可能性だし、そもそも全ての医療行為に後遺症のリスクがある以上、それも過度に気にしてもしょうがない。誰か知らない人がその説明を受けていたとしたら、多分そんな感じで受け止める。平気平気って受け止める。

でも身内がそれを受けるとなるとそうはいかない。当たり前だけど、はいはいで終われない。医師の説明も一時一句真剣に聞くし、なんなら本人以上に注意して、細かく聞いく。「何万分の一」の意味が、まずありえない、身に降りかからない事の意味から、ひょっとしたら事故が起こってしまう、現実的な不安として降りかかってくる。何万分の「一」の「イチ」は、起こりえる数としての「いち」として、現実の出来事として大きく重く自分に降りかかってきた。

 

身内だろうが赤の他人だろうが、自分が経験しない事に対しては、想像をもって接するしかない。知っているかぎりの知識や、今までの人生経験から、相手の立場と気持ちを思いやって対応する。その深度を出来るだけ深く取って、相手に寄り添うことしかできない。

誰かに何かがあった時、出来るだけその人の気持ちに寄り添いたい。そこの手は抜かない。でもだからと言って、完全に寄り添えるなんて、当事者の横に並んで寄り添えているなんて思いあがらないこと。喜びの意味の出来事ならまだしも、不安や恐怖なんかの時には特にそうでありたい。それをわかった上で、寄り添えるかどうか。

本人からしたら、身内であろうが他人であろうが、我が身に降りかかるのとではやっぱり埋められない、超えられない溝や壁があるのを突き付けられるときがある。そんなどうしようもない時、それでも寄り添ってくれる人に頼ろうと思えるのは、溝や壁を埋められない、超えられないとわかった上で、寄り添ってくれる人なんじゃないかと思う。

 

そんな寄り添い方が出来る人でいたい。

頭おかしなった と言われたい

年を取ると涙脆くなる。知識として伝聞としては勿論知っていたけど、キレるとスパナをほおり投げてきた先輩が、初孫の話をしながらホロっと涙を流すのを見て、こういうことなのかと。あの鬼のような先輩はどこに行ったんだと、頭おかしなったんやろか?と。そしてスパナを投げたことは無いけど、俺も後輩とか昔を知る人から見たら、順当に「あの人は頭おかしなった」と思われているのかもしれない。

このあたりの変化に対して、「丸くなった」という表現もあるけど、そもそも尖ったことなんてない。今も昔も小物だし、露払いや殿、腰巾着な人生だったけど、そんな人間でも、ちゃんとおかしくなってる。涙脆くなってる。

歳を取るにつれて、記憶のHDDの中身が増えていく。記憶同士の掛け合わせのパターンも増えていく。誰かの何かは、自分の記憶の中の何かに重ねやすい。重ならなくとも、想像をつけやすい。誰かの何かを、「知らぬ、わからぬ」で切り捨てるより、自分に重ねやすく、置き換えやすくなっている。若い時に「あほくさ」と思ったことに対しても、「なんかわかるよ 俺もあったよ、そうだよな」って思えるようになってきたし、更に年を重ねたら、そこに涙がONされるんだから、人生中々奥深い。

生きてきた、歳を取ってきた相応に、それなりに想い出が積み重なり、他の誰かの何かに共感できるようになってきている。共感性が無いとなじられることも多かったけど、ここ10年ぐらいでそれは減り、今ではほぼ言われない。涙脆くなるのは、順当に経験を重ねている証拠なのかと思う。


歳を重ねると、共感性が自然に上がっていく。その人の今の立場や、主張したい言葉、行動に共感できる。それも分析した上ではなく自然に深く。
歳を重ねるに従って、世の中や人に対する見え方が変わっていく。時と共に変わらない、絶対の見方なんて無いんだなと気が付く。中年も後半戦に突入しかけて、じじいに「お」が付くような歳になっていって更にそれが進む。

人間の深みが増すってこういう事なんだと思う。歳を取るのも、こういう良いことがあったりする。いい歳を重ねるとは、共感性を増していく生き方と重なるんだろう。


安心してさらに歳を取っていこう。