書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

自分比と他人比とその割合の話

他人に認められることを放棄すると随分楽になるよなと。そこを気にするから辛いんだよなと。当たり前のことなのだけど忘れがちで、意識しても直ぐに忘れる。

仕事は兎も角、趣味に関してさえも無意識でそれを気にしている。誰々よりレベルが高いとか、上手いとか、速いとか。趣味を楽しむ価値観の中に、今よりも何かを向上させたいというのもあるので、比較する何かは必要。出来るだけそれは過去の自分比で考えるようにしているけど、誰か他人比というのもゼロにはできない。ゼロにすることがいいとも思わない。試合や、競争がないのも味気ない。

他人比での比較は、自他共にわかりやすい基準でもあり、同時に他人に認めてもらいやすい基準でもある。一人その趣味を追い込んでいくのも楽しい。でも何処かその世界の中で、自分の居場所みたいなのも確認しておきたい。その世界の地図の中で、どこにいるのか知っておきたい。その世界の中で自分は相対的にどうなのか、目指す目的地を考えたらどこにいて、周りはどうなのか。そこを知っておくことは、よりその世界を楽しめる事にもつながる。

 

ただ意識して注意しないと、そこに執着してしまう。味付け程度、刺激程度のつもりだった、その世界の中での居場所を、他人より秀でてると思える所に置くこと、それを他人にも認めてもらうということに没頭してしまう。地図の中で何処にいるのかなんて、目の前の自分の世界で楽しむことに関係なんて無いのに。

いつの間にか、楽しむのための比較が、比較を楽しむに変わってしまう。悪いことに他人比の比較には終わりがなく、相手をコントロールもできない。何時までも居場所の位置にこだわり続ける。ハマる趣味程、何処か最後は辛くなるのはだからかなと。

 

過去何度も痛い目に合って以来、何処か程々に、自分の性格に合わせて、適当に自分比と他人比の割合を考えるけど、油断すると他人比の方が多くなりすぎてしまう。

もうそういう性格なんだと十分知ってる、根本的に変えるのが無理なのもわかってる。だから都度気を付け続けないといけない。

 

めんどくさ。

夜行バスに乗りたい

昔大好きだったゲームがセール中だったので買った。過去の名作が四桁円しないんだから買いである。ワンクリックでダウンロード完了。でも多分やらない。正確に言えばやりたいけどやる時間が無い。より正確に言うと、生きている以上時間はあるけど、他に「もっと」やりたいことがあるし、やらなきゃならない事もあるから、昔から大好きでやりたいゲームが目の前にあっても、それをやる暇がない。そんな感じで買い溜めたけどやってないゲームが15,6本あって、今回また新しく1本追加されただけ。馬鹿らしく思うのと同時に、やりたい事に溢れている証明だと開き直り、やりたいことが無いより恵まれていると強がれる。

社会的にも経済的にも大変成功して悠々自適、ファンにサインを求められるレベルの友人がいるけど、その人は東京と大阪の移動時に夜行バスを使う。それなりの資産を持っているし、ムダ金こそ使わないけど、ケチな人でもない。凡人のこっちからしたら、飛行機で、エコノミーじゃない席で移動すればいいのにと思うけど、「寝ている間に移動できるんだから、夜行バスは効率がいい。朝、目が覚めたら移動が終わっていて、朝一からまた全力活動できるんだから最高じゃない?」と言われて、参りましたと。そのレベルで、生きている時間を大事にマネジメントしていけば、多分飽きて嫌になるぐらい、俺もゲームが出来るのだろう。

時間をどう捉えてどう使うか。人によって変わってくるし、人によって正解は違う。深夜バスという選択を取る人間もいれば、飛行機を選ぶ人間もいる。自分の正解はこうだろうとわかっていても、それを実行に移せるか移せないかでもまた違う。お金がその選択に大いに関わってくるけど、こう使いたいという時間の使い方があるのに、お金が無いからできないというのは避けたい。やっぱりどう時間を使うかを大事にしたいし、お金が欲しいのは時間の自由を買うため。最後は時間に対する考え方を優先させたい。


自分にとって、今目の前にある時間をどう使うべきか。使った後、それは大切に、満足するほど使えたのかと自問し続けること。そしてその満足度を上げ続けられるよう、経済的にも豊かになり続けていければなと思う。

友人との会い方

知り合いと友人は違う。知り合いだと、知り合って数年ほったらかしでも、再開したら「ああ、何々さん~」になるけど、友人はそういう訳にはいかない。友人とは、適度な感覚で会わないといけない。会わないといけないと書いたけど、会うと楽しいし、会いたいから会う。直接会えずとも、SNSも含めて間接的にでも、なんなら自分の頭の中でその人の事を思い浮かべ、その友人と交流して刺激を受ける。そういうのも含めて、友人とは一定の間隔で会わないと、付き合わないといけない。
個々の友人で個性も違うので、どれだけ、どのタイミングでその友人と会うかも、友人毎によって違う。強烈な個性でガンガン刺激をくれるような人は、1年に一回ぐらいの触れ合いでいいかもしれないけど、いい意味で互いに似通っていて、共感で心が和むような友人なら、月1位でご飯を食べてもいい。そして、付き合いの長さで変化もする。昔はしょっちゅう会う位だったけど、今は半年に一回ぐらいが丁度いいような。

友人と付き合う心の余裕、心のリソースは有限。会う回数とタイミングは、自分のリソースに大きく影響される。多すぎても、心のリソースが足らなくなる。無理やりだと、中途半端な付き合いになってしまう。なので、むやみやたらに友人を増やし過ぎても意味が無い。たまに友人数を自慢する人がいるけど、「どうやって上手くやっている?」と聞いても「どうもこうも、仲良くするだけ」みたいな。向こうも困惑したような、なんでそんなこと聞くんだみたいな答えしか返ってこないから、参考にならない。
リソースは有限なので、友人の入れ替えみたいなのもある。キャパ一杯でも、この人は面白そう、自分の人生を豊かにしてくれそうと思う人が来れば、その入れ替えで疎遠になる人もいる。友人から知人になればいいけど、そんな感じになってしまったら、大抵フェードアウトしていく。我ながら酷い。とはいえ、友人側から疎遠にされてしまうこともあるので、それはもうお互い様。

友人って、出来事ベースで付き合う訳じゃなく、会う訳でもない。何もなくても、その友人にあったサイクルで会って、付き合いたい。その間隔が数年単位になるかもしれないけど、それでも友人と呼べる人は友人。友人に声を掛ける理由も考えはするけど、別に何でもいい。形だけ何かの理由があればいいだけで、「なんだそれ?」と笑われるようないい訳でもいい。会うのに、本当の意味で理由なんていらない。なんで会うのか、理由を求めてしまう人は、もう友人じゃないとも思う。

 

今日も昼も夜も、友人に囲まれて幸せでした。

いてくれる友人に、心から感謝します。

考えとかストーリーとかを買いたい

仕事で使っている革の鞄が壊れてしまった。ショルダーストラップを止めている、2つある、鞄側の付け根の部分(根革というらしい)の片方1つが破れてしまって、あと少しで完全に切れてしまう。一応ブランド品なので、正規店に持って行けば修理してくれるけど、国内の正規店では、修理業者に外注で出すという噂を聞いていたので、自分で修理業者を探した。使い始めて10年以上経つけど、なんだかんだ気に入り、大事にもしている鞄なので、どこに出すか慎重に修理業者を調べた。結果、東京にある2社に絞られ、鞄の画像を添付し、修理見積もりを依頼した。

 

どちらも丁寧な返事と共に、概算の見積もりを送ってくれた。両者の見積もりには、倍の差があった。5千円、1万円の違いじゃなくて倍。だからといって、安い方の業者の修理の質が低いとも思えない。流石に倍は無いなと、内心安い方の業者に決めながらも、なんでそこまでの差なんだろうと、もう一度しっかり、見積もりを添付してあったメールを読んでみた。

下の方に「根革に関して、当社では左右交換させて頂きます」と書いてある。左右?ショルダーストラップを止めるんだから、左右両方に根革はあるけど、破れているのは片方だけ。もう片方は何ともない。見積もり依頼時に付けた画像でも、片方だけで問題無いことがわかる筈。何で?と最初は思った。

 

革なので、年月と使い込みで色合いは変わっていく。革の味ともいえるけど、色褪せが進んでいく。その色褪せた革に出来るだけ似た革を選び、交換してくれるんだろうけど、全く同じ色の革はあり得ない。根革は左右2つあるので、片方だけだと、どうしてもそちらだけが目立つ。だから交換するなら両方ということらしいと気が付いた。

それを書いてくれたらとも思ったけど、「鞄が壊れて、買い替えるんじゃなくて、修理を依頼してくるぐらい、大事な鞄なんでしょ?じゃあ安かったら良いというもんじゃないですよね?ウチは修理後も出来るだけ気持ちよく、良いコンディションで使って欲しいんです、うちにお願いするお客さんはそんな事言わなくてもわかりますよね?」という、意味さえあるのかもとも思った。

 

客によって、直ればいいという人も多いだろうし、そんな人達からしたら、左右変えられるなんてぼったくりと同じ。でも片方では、そこで余分にお金が掛かっても、今後より良い状態で使えることを望む客もいる。

今回、俺は後者だった。他の物だったら、前者の方がありがたかったかもしれないし、後者をぼったくられてると怒ったかもしれない。でも、仕事で使っている革鞄に関してはそう思った。何の説明が無くとも、左右交換の見積もりを出してきた業者を、より自分に合う、よりお金を払ってでもお願いしたい業者だと思った。

 

何かを買う時って、商品、サービスそのものは勿論だけど、業者やお店の考えとか、ストーリーとかそういうものを重視したい。場合によっては多少高くても良いし、もっと言うと、依頼した物の質、そのものが少し落ちたとしても、そういう考えとか、持っているストーリーを大事にしたい。質もだけど、そっちを買いたい。

 

ここまで書いて初めて気が付いた。

意外と俺は、ブランド品が好きなのかもしれない。

画像データと写真

よく考えたら手元に「写真」が殆どない。普段から撮影自体は沢山している。スマホで撮りためた画像が、スマホにも、PCのハードディスクにも、クラウドのフォルダの中にも沢山ある。でもそれはデジタルな画像データであって「写真」じゃない。

デジタルの画像データは、何時でも何処でも見ることができて凄く便利。大きさも変えられるし、明るさや色合いも変更できるし、切り取りだってできてしまう。一瞬で受け渡しだって出来るし、万能。でもあれだけ取り溜めている画像データなのに、不思議とそんなに見ようと思わない。持っているだけで満足してしまっているのか。それはそれでいいのかもしれないけど。

殆ど無いってだけで、机の上に1枚だけ飾っている写真がある。たまたま何かの機会で出てきて、写真立てもあったので、せっかくだしと書斎の机の上に飾ってみた。

気が付いたら毎日それを見ている。机の上にあるから嫌でも目に入るんだけど、そうやって目に入ってくるという意味じゃなく、ちゃんと此方から見ている。何度も見て、何度も癒されている。俺の古いアナログな面が、ここでも出たかと思いつつ、案外そんな人も多いのかもとも思う。

同じ画像を目に映しはするけど、画像データと写真はやっぱり違う。画像が保存されたものとして、それだけで見るなら同じ、両者は同じ。でも「写真」にすると、そして出来ればお気に入りの写真立てなんかに入れると、スマホ越し、モニター越しの同じ画像データより、多く深く想い出が沸き上がるし、感情の揺り動かされようも大きいと思える。

スマホやデジカメで撮った画像データが出目という訳じゃない。フィルムカメラの時と比べて、失敗を恐れず気軽に沢山撮れるようになったし、保管場所もクラウドをはじめ。事実上無制限に気にせず保存できる。後になって、撮っておいて良かったと思えるような画像だって沢山ある。そもそも、全部が全部、写真にしていたら大変。ただ大事な画像とか、その時の自分に何かを与えてくれそうな画像は、ちゃんと写真にしておきたい。写真にして飾っておきたい。

 

画像データと写真。同じ画像という縛りで、同じもの扱いするべきじゃない。同じ画像でという軸でまとめるのは、大して意味がないことなのかもしれない。写真には画像データを超えた価値があるというか、それぐらい別のものだと思うようになった。

 

形あるものはやっぱり強い。

早回し過ぎ

昔と比べて、やりたいことや、興味のあることに対して、深堀することがとても楽な時代になった。ネットやスマホの進化のお陰で、殆どの知りたい事は、労せず、直ぐに手に入る。それもほぼ無料。自ら発信してくれる人も増えてきたから、学び先も多様になった。昔と比べ、早くて手軽に、深い知識やノウハウを得ることが出来る時代になった。

でも早く簡単に深くは、プラスだけでなく、マイナスも平等に連れてくる。早く簡単に深堀出来るは、先人が絶望的なほど、遥か先にいたりすることを正確に教えてくれもして、他の誰かへの尊敬が、嫌いに代わる程のレベルと才能の差を、あっけなく見せ付けてくる。昔はそんなマイナスの現実を知るのにも、それなりの時間がかかったけど、今は比較的早くに知ることになる。

どれだけやりたいこと、興味のあることでも、後になって冷めてしまうことはある。それはしようがないとしても、もしそれがやりたい事、好きな事の寿命だとしたら、今の時代、その寿命は短くなりがちなのかもしれない。

昔のように、もっとじっくりゆっくり、手探りで地道に探っていくのも悪くはなかった。本と、ネットの無い狭い世界で、何とか繋がった極一部の人達と、刺激を与え合う時代もそう悪くはなかった。今は一瞬で、世界で一番凄い人、都道府県で1位の人、真似できない圧倒的な才能を知れるけど、それこそおっかなびっくり、道場破り的な遠征や接触をして、とんでもなくレベルの高い人や、全然知らない技術を知る時代も悪くなかった。

今のように、早く簡単に深堀できる時代が悪いとは思えない。俺だって、その恩恵も随分受けてきた。でも今はちょっと早回しをし過ぎな気もする。もうちょっとゆっくり接したい。ゆっくり味わいたい。最後に冷める運命だとしても、一度はやりたくなったこと、好きになったことを、出来るだけ長く楽しんでいたい。

もう少し、夢を見させてよとも思う。

読書会

読書会が好きだ。昔から機会があれば参加していて、最近も友人が主催してくれた会に参加したけど面白い。ただ、紹介された本を検索して、時には手に取って読んでみるけど、どストライクで自分に刺さることは少ない。無いとは言わないけど、今まで読書会で紹介された本で、めちゃくちゃ面白かったと思える本は数え切れるほどしかない。

自分にどストライクな本、人生に大きな影響を与えるというような本は、自分で見つけている。引き寄せの法則とは言わないけど、必然的に自分で出逢えるようになっている。それか、俺のことをよく知っている、心を許した友人や、メンタークラスの人からの紹介経由で、そういった本とは出逢ってる。読書会では、そういった本とは出逢えない。

読書会で紹介をされる本は、自分が書店で見たり、何かの紹介で知った程度ではまず手に取らない本。読書会に参加している人が「面白いよ!」と後押しする、そういう手に取るブースト、読もうと思うブーストを掛けてくれるからこそ、実際に手に取り読んで、「あー、こういう世界があるんだ」と楽しむことができる本。読書会って、そういった、ちょっと自分の好みとは違う、斜めからの本との出会いを与えてくれる。紹介された本が、自分の好みそのものだったという経験は素敵かもしれないけど、それよりも、ちょっと自分の好みから外れた本を紹介される方が楽しい。

 

そして失礼を承知で言うと、読書会で紹介される本自体には全く興味が沸かない時もある。でもそれでも楽しい。正直、紹介される本より、好きな本を紹介する人の姿を見るのが楽しい。最初は緊張している人でも、好きな本のことを紹介し始めたら段々早口になるし、強張っていた顔はどんどん笑顔になるし、興奮してきて身振り手振りも交えながら、力いっぱいこの本が好きだということを伝えてくれる。本の表紙をこちらに向けて、「この本面白いんです!」って言ってくれる姿を見れるだけで、読書会に参加する価値がある。好きな本を紹介する人の姿は、幸せな気持ちにさせてくれる。

 

という訳で読書会、どうかお誘いくださいませ。