書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

何万分の一

家族がある手術をすることになって、付き添いで一緒に説明を受けに行った。聞いた結果、医師でもない俺がこんなことを言っては駄目なんだけど、その手術は比較的簡単なもので、分類上こそ「手術」に値するけど、どちらかというと治療の延長に近いものだと知った。後遺症のリスクは勿論あるけど、何万分の一以下の可能性だし、そもそも全ての医療行為に後遺症のリスクがある以上、それも過度に気にしてもしょうがない。誰か知らない人がその説明を受けていたとしたら、多分そんな感じで受け止める。平気平気って受け止める。

でも身内がそれを受けるとなるとそうはいかない。当たり前だけど、はいはいで終われない。医師の説明も一時一句真剣に聞くし、なんなら本人以上に注意して、細かく聞いく。「何万分の一」の意味が、まずありえない、身に降りかからない事の意味から、ひょっとしたら事故が起こってしまう、現実的な不安として降りかかってくる。何万分の「一」の「イチ」は、起こりえる数としての「いち」として、現実の出来事として大きく重く自分に降りかかってきた。

 

身内だろうが赤の他人だろうが、自分が経験しない事に対しては、想像をもって接するしかない。知っているかぎりの知識や、今までの人生経験から、相手の立場と気持ちを思いやって対応する。その深度を出来るだけ深く取って、相手に寄り添うことしかできない。

誰かに何かがあった時、出来るだけその人の気持ちに寄り添いたい。そこの手は抜かない。でもだからと言って、完全に寄り添えるなんて、当事者の横に並んで寄り添えているなんて思いあがらないこと。喜びの意味の出来事ならまだしも、不安や恐怖なんかの時には特にそうでありたい。それをわかった上で、寄り添えるかどうか。

本人からしたら、身内であろうが他人であろうが、我が身に降りかかるのとではやっぱり埋められない、超えられない溝や壁があるのを突き付けられるときがある。そんなどうしようもない時、それでも寄り添ってくれる人に頼ろうと思えるのは、溝や壁を埋められない、超えられないとわかった上で、寄り添ってくれる人なんじゃないかと思う。

 

そんな寄り添い方が出来る人でいたい。