書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

多様性 の世の中は、厳しい世の中なのかもしれない

多様性とか、ここ15、6年の間に初めて概念を理解した感じで、「色んな価値観に基づいた生き方を尊重しましょう」て言われても、最初はピンとこなかった。昔は変わり者以外、ほぼみんな同じ価値観の生き方だったし、その中で優劣を競ってきたように思う。その代わり、その時代の世の中の本流というか、大筋の価値観に従っていれば、その価値観の下、全体に守られていたようにも思う。

100%とは言わないけど、今は昔と比べて「多様性」という名の下、自由な価値観に基づいた生き方が認められているし、尊重もされている。法を犯さなければ、どう生きようとも、少なくとも表向きには他人に指も刺されにくい。昔はそういう世の中の流れと違う生き方をしていたら、面と向かってあれやこれや言われたし、影で色々干渉もされた。今は違う。寧ろ何か言ったり干渉すれば、そちらが強く非難されるようになった。

昔と比べて、生き方へのプレッシャーは少なくなった。凄くいいことだと思う。生き方に関して、各々の価値観で ご自由に の時代になりつつある。

 

俺が子供の頃、学校から帰ってきたら必ず母親がいておやつを出してくれた。友達が家に来たらもてなしてくれたし、逆に友達の家に行ったら、同じように友達の母親がもてなしてくれた。今は共働きが当たり前だし、こういう過ごし方は減っていそう。俺みたいなだらしない人間が、一応大は学に行けたのも、当時の高校生は、なんとなく大学にいっておくべきという空気があったから。それに何の疑問も感じていなかった。縁あって出逢った人と籍を入れ、世界で一番大事な存在となった我が子が生まれてくれたのも、30前後で男女は結婚するものだという価値観があったから。

束縛というレベルではないけど、目に見えない、こうすべきという全体の価値観は確実にあった。それは生き方を窮屈にさせてはいたけど、そこから得られるものも確かにあった。意識していた訳じゃないけど、俺はそれに乗ったから、幸せな選択が出来たのかもしれない。これに乗らなかった世界はどうなっていたんだろうと、たまに思う。

 

多様化を肯定する世の中になって、共通の価値観の下、周りが上手く全体の中で生きていけるよう、守ってくれる社会でもなくなった。「お互い自由に生きましょう、その代わり、自分で強く生きてね」という感じに。各々の価値観を持って自立するには、独立した生きる強さも求められている。

今の世の中、色んな価値観が認められていいねと思いはしつつ、あなたの価値観は?それに沿った生き方は?って問われても、即座に答えられる人はどれだけいるんだろう。今の若い人でも、俺が若い時に生まれていた方が、なんだかんだ幸せになれていた人がいたのかもしれない。ふとそんな事を思って、複雑な気持ちになった。

 

それでも多様性が認められ、色んな価値観の下、堂々と生きる事の出来る今が良いと信じる。生き方へのプレッシャーが下がったというのは、本当に素晴らしい。今より、もっと多様性が認められる社会にするのが、我々大人の責任。ただ多様性を求められる故、上手くいかない人も恐らく一定数いる。そんな人をフォローする事も、多様性を進めるのと同じぐらい、我々大人は忘れたらダメだと思う。