書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

面取りとか服装とか、そういうめんどくさい話

人に文章を投げるには、投げる相手に伝わるように書かないといけない。そこには礼儀だってある。でもそこをかしこまりすぎると、伝えたいことが減衰する。時に一番伝えたい、温度感みたいなものが伝わらない。

単語の意味が、全人類共通の感性と価値観ならいいんだけど、そうじゃないから文章にしてあれやこれや説明する。美味しいだって、こう美味しい、これぐらい美味しい、これぐらいってどれぐらい?みたいに、言葉を数珠つなぎに発し続けて文章を紡いでいく。文章は文字で伝えるから、はっきりとした形で表れる。「文字=形」であらわすから逃げられない。読む人全員、解釈は違えど同じように読める。会話と比べたら、文章は凄くデジタルな気がする。

文章は会話以上に気を遣う。感情と思惑にまみれた意志を、そのまま投げる事なんてしない。尖っているところを面取りし、滑らかにして、自分なりにこれで良いかと推敲する。会話は音で、見えないから裸で送り出してもごまかせるけど、文章だとそうはいかない。相手に合わせた、他所行きの服を着せて送り出す。相手がカジュアルな服装の奴ならジーパンを履かせ、先生相手ならスーツを着せる。表現する形容する単語のチョイスにも気を遣う。

そうやって、気を揉みながら文章を書くことは大事だと思うんだけど、だからといって、願い通りに伝わるとも限らない。面取りし、削ぎ落したところにこそ、相手に刺さる何かがあったりするかもしれないし、マッパは流石に駄目だとしても、ジーパンの奴にタキシード着ながら伝えた方が、伝わりやすい場面もあるかもしれない。恥ずかしくないようにする面取りや服装が、逆に大きく意味を損なっている時もあるのかもしれない。

書くと、文字にすると、文章にするとずっと残る。会話のように、言った言わないにはならない。聞こえなかったと逃げられない。聞かなかったことにはできない。一度文章で投げた以上、無かったことには出来ない。かしこまって書こうが、吐き捨てながら書こうが、書いたものには責任が残る。そして書いた以上、読んだ以上、書き手にも読み手にも態度に出る。そう考えると、文章で書いて伝えるって、めちゃくちゃ重たい事なんだと思う。

 

そんなことを全部受け入れながらも、やっぱり会話で伝えるより文章で伝える方が好きだ。ただ好きなんだけど、もうちょっと楽に書きたい。楽に書ければいいんだけど。

何万分の一

家族がある手術をすることになって、付き添いで一緒に説明を受けに行った。聞いた結果、医師でもない俺がこんなことを言っては駄目なんだけど、その手術は比較的簡単なもので、分類上こそ「手術」に値するけど、どちらかというと治療の延長に近いものだと知った。後遺症のリスクは勿論あるけど、何万分の一以下の可能性だし、そもそも全ての医療行為に後遺症のリスクがある以上、それも過度に気にしてもしょうがない。誰か知らない人がその説明を受けていたとしたら、多分そんな感じで受け止める。平気平気って受け止める。

でも身内がそれを受けるとなるとそうはいかない。当たり前だけど、はいはいで終われない。医師の説明も一時一句真剣に聞くし、なんなら本人以上に注意して、細かく聞いく。「何万分の一」の意味が、まずありえない、身に降りかからない事の意味から、ひょっとしたら事故が起こってしまう、現実的な不安として降りかかってくる。何万分の「一」の「イチ」は、起こりえる数としての「いち」として、現実の出来事として大きく重く自分に降りかかってきた。

 

身内だろうが赤の他人だろうが、自分が経験しない事に対しては、想像をもって接するしかない。知っているかぎりの知識や、今までの人生経験から、相手の立場と気持ちを思いやって対応する。その深度を出来るだけ深く取って、相手に寄り添うことしかできない。

誰かに何かがあった時、出来るだけその人の気持ちに寄り添いたい。そこの手は抜かない。でもだからと言って、完全に寄り添えるなんて、当事者の横に並んで寄り添えているなんて思いあがらないこと。喜びの意味の出来事ならまだしも、不安や恐怖なんかの時には特にそうでありたい。それをわかった上で、寄り添えるかどうか。

本人からしたら、身内であろうが他人であろうが、我が身に降りかかるのとではやっぱり埋められない、超えられない溝や壁があるのを突き付けられるときがある。そんなどうしようもない時、それでも寄り添ってくれる人に頼ろうと思えるのは、溝や壁を埋められない、超えられないとわかった上で、寄り添ってくれる人なんじゃないかと思う。

 

そんな寄り添い方が出来る人でいたい。

頭おかしなった と言われたい

年を取ると涙脆くなる。知識として伝聞としては勿論知っていたけど、キレるとスパナをほおり投げてきた先輩が、初孫の話をしながらホロっと涙を流すのを見て、こういうことなのかと。あの鬼のような先輩はどこに行ったんだと、頭おかしなったんやろか?と。そしてスパナを投げたことは無いけど、俺も後輩とか昔を知る人から見たら、順当に「あの人は頭おかしなった」と思われているのかもしれない。

このあたりの変化に対して、「丸くなった」という表現もあるけど、そもそも尖ったことなんてない。今も昔も小物だし、露払いや殿、腰巾着な人生だったけど、そんな人間でも、ちゃんとおかしくなってる。涙脆くなってる。

歳を取るにつれて、記憶のHDDの中身が増えていく。記憶同士の掛け合わせのパターンも増えていく。誰かの何かは、自分の記憶の中の何かに重ねやすい。重ならなくとも、想像をつけやすい。誰かの何かを、「知らぬ、わからぬ」で切り捨てるより、自分に重ねやすく、置き換えやすくなっている。若い時に「あほくさ」と思ったことに対しても、「なんかわかるよ 俺もあったよ、そうだよな」って思えるようになってきたし、更に年を重ねたら、そこに涙がONされるんだから、人生中々奥深い。

生きてきた、歳を取ってきた相応に、それなりに想い出が積み重なり、他の誰かの何かに共感できるようになってきている。共感性が無いとなじられることも多かったけど、ここ10年ぐらいでそれは減り、今ではほぼ言われない。涙脆くなるのは、順当に経験を重ねている証拠なのかと思う。


歳を重ねると、共感性が自然に上がっていく。その人の今の立場や、主張したい言葉、行動に共感できる。それも分析した上ではなく自然に深く。
歳を重ねるに従って、世の中や人に対する見え方が変わっていく。時と共に変わらない、絶対の見方なんて無いんだなと気が付く。中年も後半戦に突入しかけて、じじいに「お」が付くような歳になっていって更にそれが進む。

人間の深みが増すってこういう事なんだと思う。歳を取るのも、こういう良いことがあったりする。いい歳を重ねるとは、共感性を増していく生き方と重なるんだろう。


安心してさらに歳を取っていこう。

自分比と他人比とその割合の話

他人に認められることを放棄すると随分楽になるよなと。そこを気にするから辛いんだよなと。当たり前のことなのだけど忘れがちで、意識しても直ぐに忘れる。

仕事は兎も角、趣味に関してさえも無意識でそれを気にしている。誰々よりレベルが高いとか、上手いとか、速いとか。趣味を楽しむ価値観の中に、今よりも何かを向上させたいというのもあるので、比較する何かは必要。出来るだけそれは過去の自分比で考えるようにしているけど、誰か他人比というのもゼロにはできない。ゼロにすることがいいとも思わない。試合や、競争がないのも味気ない。

他人比での比較は、自他共にわかりやすい基準でもあり、同時に他人に認めてもらいやすい基準でもある。一人その趣味を追い込んでいくのも楽しい。でも何処かその世界の中で、自分の居場所みたいなのも確認しておきたい。その世界の地図の中で、どこにいるのか知っておきたい。その世界の中で自分は相対的にどうなのか、目指す目的地を考えたらどこにいて、周りはどうなのか。そこを知っておくことは、よりその世界を楽しめる事にもつながる。

 

ただ意識して注意しないと、そこに執着してしまう。味付け程度、刺激程度のつもりだった、その世界の中での居場所を、他人より秀でてると思える所に置くこと、それを他人にも認めてもらうということに没頭してしまう。地図の中で何処にいるのかなんて、目の前の自分の世界で楽しむことに関係なんて無いのに。

いつの間にか、楽しむのための比較が、比較を楽しむに変わってしまう。悪いことに他人比の比較には終わりがなく、相手をコントロールもできない。何時までも居場所の位置にこだわり続ける。ハマる趣味程、何処か最後は辛くなるのはだからかなと。

 

過去何度も痛い目に合って以来、何処か程々に、自分の性格に合わせて、適当に自分比と他人比の割合を考えるけど、油断すると他人比の方が多くなりすぎてしまう。

もうそういう性格なんだと十分知ってる、根本的に変えるのが無理なのもわかってる。だから都度気を付け続けないといけない。

 

めんどくさ。

夜行バスに乗りたい

昔大好きだったゲームがセール中だったので買った。過去の名作が四桁円しないんだから買いである。ワンクリックでダウンロード完了。でも多分やらない。正確に言えばやりたいけどやる時間が無い。より正確に言うと、生きている以上時間はあるけど、他に「もっと」やりたいことがあるし、やらなきゃならない事もあるから、昔から大好きでやりたいゲームが目の前にあっても、それをやる暇がない。そんな感じで買い溜めたけどやってないゲームが15,6本あって、今回また新しく1本追加されただけ。馬鹿らしく思うのと同時に、やりたい事に溢れている証明だと開き直り、やりたいことが無いより恵まれていると強がれる。

社会的にも経済的にも大変成功して悠々自適、ファンにサインを求められるレベルの友人がいるけど、その人は東京と大阪の移動時に夜行バスを使う。それなりの資産を持っているし、ムダ金こそ使わないけど、ケチな人でもない。凡人のこっちからしたら、飛行機で、エコノミーじゃない席で移動すればいいのにと思うけど、「寝ている間に移動できるんだから、夜行バスは効率がいい。朝、目が覚めたら移動が終わっていて、朝一からまた全力活動できるんだから最高じゃない?」と言われて、参りましたと。そのレベルで、生きている時間を大事にマネジメントしていけば、多分飽きて嫌になるぐらい、俺もゲームが出来るのだろう。

時間をどう捉えてどう使うか。人によって変わってくるし、人によって正解は違う。深夜バスという選択を取る人間もいれば、飛行機を選ぶ人間もいる。自分の正解はこうだろうとわかっていても、それを実行に移せるか移せないかでもまた違う。お金がその選択に大いに関わってくるけど、こう使いたいという時間の使い方があるのに、お金が無いからできないというのは避けたい。やっぱりどう時間を使うかを大事にしたいし、お金が欲しいのは時間の自由を買うため。最後は時間に対する考え方を優先させたい。


自分にとって、今目の前にある時間をどう使うべきか。使った後、それは大切に、満足するほど使えたのかと自問し続けること。そしてその満足度を上げ続けられるよう、経済的にも豊かになり続けていければなと思う。

友人との会い方

知り合いと友人は違う。知り合いだと、知り合って数年ほったらかしでも、再開したら「ああ、何々さん~」になるけど、友人はそういう訳にはいかない。友人とは、適度な感覚で会わないといけない。会わないといけないと書いたけど、会うと楽しいし、会いたいから会う。直接会えずとも、SNSも含めて間接的にでも、なんなら自分の頭の中でその人の事を思い浮かべ、その友人と交流して刺激を受ける。そういうのも含めて、友人とは一定の間隔で会わないと、付き合わないといけない。
個々の友人で個性も違うので、どれだけ、どのタイミングでその友人と会うかも、友人毎によって違う。強烈な個性でガンガン刺激をくれるような人は、1年に一回ぐらいの触れ合いでいいかもしれないけど、いい意味で互いに似通っていて、共感で心が和むような友人なら、月1位でご飯を食べてもいい。そして、付き合いの長さで変化もする。昔はしょっちゅう会う位だったけど、今は半年に一回ぐらいが丁度いいような。

友人と付き合う心の余裕、心のリソースは有限。会う回数とタイミングは、自分のリソースに大きく影響される。多すぎても、心のリソースが足らなくなる。無理やりだと、中途半端な付き合いになってしまう。なので、むやみやたらに友人を増やし過ぎても意味が無い。たまに友人数を自慢する人がいるけど、「どうやって上手くやっている?」と聞いても「どうもこうも、仲良くするだけ」みたいな。向こうも困惑したような、なんでそんなこと聞くんだみたいな答えしか返ってこないから、参考にならない。
リソースは有限なので、友人の入れ替えみたいなのもある。キャパ一杯でも、この人は面白そう、自分の人生を豊かにしてくれそうと思う人が来れば、その入れ替えで疎遠になる人もいる。友人から知人になればいいけど、そんな感じになってしまったら、大抵フェードアウトしていく。我ながら酷い。とはいえ、友人側から疎遠にされてしまうこともあるので、それはもうお互い様。

友人って、出来事ベースで付き合う訳じゃなく、会う訳でもない。何もなくても、その友人にあったサイクルで会って、付き合いたい。その間隔が数年単位になるかもしれないけど、それでも友人と呼べる人は友人。友人に声を掛ける理由も考えはするけど、別に何でもいい。形だけ何かの理由があればいいだけで、「なんだそれ?」と笑われるようないい訳でもいい。会うのに、本当の意味で理由なんていらない。なんで会うのか、理由を求めてしまう人は、もう友人じゃないとも思う。

 

今日も昼も夜も、友人に囲まれて幸せでした。

いてくれる友人に、心から感謝します。

考えとかストーリーとかを買いたい

仕事で使っている革の鞄が壊れてしまった。ショルダーストラップを止めている、2つある、鞄側の付け根の部分(根革というらしい)の片方1つが破れてしまって、あと少しで完全に切れてしまう。一応ブランド品なので、正規店に持って行けば修理してくれるけど、国内の正規店では、修理業者に外注で出すという噂を聞いていたので、自分で修理業者を探した。使い始めて10年以上経つけど、なんだかんだ気に入り、大事にもしている鞄なので、どこに出すか慎重に修理業者を調べた。結果、東京にある2社に絞られ、鞄の画像を添付し、修理見積もりを依頼した。

 

どちらも丁寧な返事と共に、概算の見積もりを送ってくれた。両者の見積もりには、倍の差があった。5千円、1万円の違いじゃなくて倍。だからといって、安い方の業者の修理の質が低いとも思えない。流石に倍は無いなと、内心安い方の業者に決めながらも、なんでそこまでの差なんだろうと、もう一度しっかり、見積もりを添付してあったメールを読んでみた。

下の方に「根革に関して、当社では左右交換させて頂きます」と書いてある。左右?ショルダーストラップを止めるんだから、左右両方に根革はあるけど、破れているのは片方だけ。もう片方は何ともない。見積もり依頼時に付けた画像でも、片方だけで問題無いことがわかる筈。何で?と最初は思った。

 

革なので、年月と使い込みで色合いは変わっていく。革の味ともいえるけど、色褪せが進んでいく。その色褪せた革に出来るだけ似た革を選び、交換してくれるんだろうけど、全く同じ色の革はあり得ない。根革は左右2つあるので、片方だけだと、どうしてもそちらだけが目立つ。だから交換するなら両方ということらしいと気が付いた。

それを書いてくれたらとも思ったけど、「鞄が壊れて、買い替えるんじゃなくて、修理を依頼してくるぐらい、大事な鞄なんでしょ?じゃあ安かったら良いというもんじゃないですよね?ウチは修理後も出来るだけ気持ちよく、良いコンディションで使って欲しいんです、うちにお願いするお客さんはそんな事言わなくてもわかりますよね?」という、意味さえあるのかもとも思った。

 

客によって、直ればいいという人も多いだろうし、そんな人達からしたら、左右変えられるなんてぼったくりと同じ。でも片方では、そこで余分にお金が掛かっても、今後より良い状態で使えることを望む客もいる。

今回、俺は後者だった。他の物だったら、前者の方がありがたかったかもしれないし、後者をぼったくられてると怒ったかもしれない。でも、仕事で使っている革鞄に関してはそう思った。何の説明が無くとも、左右交換の見積もりを出してきた業者を、より自分に合う、よりお金を払ってでもお願いしたい業者だと思った。

 

何かを買う時って、商品、サービスそのものは勿論だけど、業者やお店の考えとか、ストーリーとかそういうものを重視したい。場合によっては多少高くても良いし、もっと言うと、依頼した物の質、そのものが少し落ちたとしても、そういう考えとか、持っているストーリーを大事にしたい。質もだけど、そっちを買いたい。

 

ここまで書いて初めて気が付いた。

意外と俺は、ブランド品が好きなのかもしれない。