書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

画像データと写真

よく考えたら手元に「写真」が殆どない。普段から撮影自体は沢山している。スマホで撮りためた画像が、スマホにも、PCのハードディスクにも、クラウドのフォルダの中にも沢山ある。でもそれはデジタルな画像データであって「写真」じゃない。

デジタルの画像データは、何時でも何処でも見ることができて凄く便利。大きさも変えられるし、明るさや色合いも変更できるし、切り取りだってできてしまう。一瞬で受け渡しだって出来るし、万能。でもあれだけ取り溜めている画像データなのに、不思議とそんなに見ようと思わない。持っているだけで満足してしまっているのか。それはそれでいいのかもしれないけど。

殆ど無いってだけで、机の上に1枚だけ飾っている写真がある。たまたま何かの機会で出てきて、写真立てもあったので、せっかくだしと書斎の机の上に飾ってみた。

気が付いたら毎日それを見ている。机の上にあるから嫌でも目に入るんだけど、そうやって目に入ってくるという意味じゃなく、ちゃんと此方から見ている。何度も見て、何度も癒されている。俺の古いアナログな面が、ここでも出たかと思いつつ、案外そんな人も多いのかもとも思う。

同じ画像を目に映しはするけど、画像データと写真はやっぱり違う。画像が保存されたものとして、それだけで見るなら同じ、両者は同じ。でも「写真」にすると、そして出来ればお気に入りの写真立てなんかに入れると、スマホ越し、モニター越しの同じ画像データより、多く深く想い出が沸き上がるし、感情の揺り動かされようも大きいと思える。

スマホやデジカメで撮った画像データが出目という訳じゃない。フィルムカメラの時と比べて、失敗を恐れず気軽に沢山撮れるようになったし、保管場所もクラウドをはじめ。事実上無制限に気にせず保存できる。後になって、撮っておいて良かったと思えるような画像だって沢山ある。そもそも、全部が全部、写真にしていたら大変。ただ大事な画像とか、その時の自分に何かを与えてくれそうな画像は、ちゃんと写真にしておきたい。写真にして飾っておきたい。

 

画像データと写真。同じ画像という縛りで、同じもの扱いするべきじゃない。同じ画像でという軸でまとめるのは、大して意味がないことなのかもしれない。写真には画像データを超えた価値があるというか、それぐらい別のものだと思うようになった。

 

形あるものはやっぱり強い。

早回し過ぎ

昔と比べて、やりたいことや、興味のあることに対して、深堀することがとても楽な時代になった。ネットやスマホの進化のお陰で、殆どの知りたい事は、労せず、直ぐに手に入る。それもほぼ無料。自ら発信してくれる人も増えてきたから、学び先も多様になった。昔と比べ、早くて手軽に、深い知識やノウハウを得ることが出来る時代になった。

でも早く簡単に深くは、プラスだけでなく、マイナスも平等に連れてくる。早く簡単に深堀出来るは、先人が絶望的なほど、遥か先にいたりすることを正確に教えてくれもして、他の誰かへの尊敬が、嫌いに代わる程のレベルと才能の差を、あっけなく見せ付けてくる。昔はそんなマイナスの現実を知るのにも、それなりの時間がかかったけど、今は比較的早くに知ることになる。

どれだけやりたいこと、興味のあることでも、後になって冷めてしまうことはある。それはしようがないとしても、もしそれがやりたい事、好きな事の寿命だとしたら、今の時代、その寿命は短くなりがちなのかもしれない。

昔のように、もっとじっくりゆっくり、手探りで地道に探っていくのも悪くはなかった。本と、ネットの無い狭い世界で、何とか繋がった極一部の人達と、刺激を与え合う時代もそう悪くはなかった。今は一瞬で、世界で一番凄い人、都道府県で1位の人、真似できない圧倒的な才能を知れるけど、それこそおっかなびっくり、道場破り的な遠征や接触をして、とんでもなくレベルの高い人や、全然知らない技術を知る時代も悪くなかった。

今のように、早く簡単に深堀できる時代が悪いとは思えない。俺だって、その恩恵も随分受けてきた。でも今はちょっと早回しをし過ぎな気もする。もうちょっとゆっくり接したい。ゆっくり味わいたい。最後に冷める運命だとしても、一度はやりたくなったこと、好きになったことを、出来るだけ長く楽しんでいたい。

もう少し、夢を見させてよとも思う。

読書会

読書会が好きだ。昔から機会があれば参加していて、最近も友人が主催してくれた会に参加したけど面白い。ただ、紹介された本を検索して、時には手に取って読んでみるけど、どストライクで自分に刺さることは少ない。無いとは言わないけど、今まで読書会で紹介された本で、めちゃくちゃ面白かったと思える本は数え切れるほどしかない。

自分にどストライクな本、人生に大きな影響を与えるというような本は、自分で見つけている。引き寄せの法則とは言わないけど、必然的に自分で出逢えるようになっている。それか、俺のことをよく知っている、心を許した友人や、メンタークラスの人からの紹介経由で、そういった本とは出逢ってる。読書会では、そういった本とは出逢えない。

読書会で紹介をされる本は、自分が書店で見たり、何かの紹介で知った程度ではまず手に取らない本。読書会に参加している人が「面白いよ!」と後押しする、そういう手に取るブースト、読もうと思うブーストを掛けてくれるからこそ、実際に手に取り読んで、「あー、こういう世界があるんだ」と楽しむことができる本。読書会って、そういった、ちょっと自分の好みとは違う、斜めからの本との出会いを与えてくれる。紹介された本が、自分の好みそのものだったという経験は素敵かもしれないけど、それよりも、ちょっと自分の好みから外れた本を紹介される方が楽しい。

 

そして失礼を承知で言うと、読書会で紹介される本自体には全く興味が沸かない時もある。でもそれでも楽しい。正直、紹介される本より、好きな本を紹介する人の姿を見るのが楽しい。最初は緊張している人でも、好きな本のことを紹介し始めたら段々早口になるし、強張っていた顔はどんどん笑顔になるし、興奮してきて身振り手振りも交えながら、力いっぱいこの本が好きだということを伝えてくれる。本の表紙をこちらに向けて、「この本面白いんです!」って言ってくれる姿を見れるだけで、読書会に参加する価値がある。好きな本を紹介する人の姿は、幸せな気持ちにさせてくれる。

 

という訳で読書会、どうかお誘いくださいませ。

金で解決することについて

俺は金持ちでもないし、高給取りでもない。大事なことなのでもう一回言うけど、俺はお金を沢山持ってはいないし、給料だって別段高くも無い、つまり裕福な人間ではないけれど、お金で解決できることは、とっととお金で解決した方がいいと思っている。

早く解決できないことによる時間的な損失と、その間抱えるストレスを考えたら、お金でさっさと解決したい。お金以外の解決策があるかもしれないけど、そこに辿り着くまでの意志力と時間、手間を考えたら、お金で解決してしまう方が割がいい。

 

節約や我慢が美徳というイメージが子供の頃からずっとあって、基本出来るだけお金は使わない。お金は貴重。お金を使うのは勿体ない。お金は出来るだけ多く持ちたいし、増やし続けたい。それは正しい。でも、お金以外の解決策を思案する時間と、我慢して納得させる意志力を、出来ればもっと前向きなものに使いたい。つまらないストレスや我慢を避けるために、金の力でさっさと処理をする。言葉で書くと下品で乱暴で高慢だけど、でもやっぱりそちらの方が生き方としては賢いように思う。

周りにいるお金持ちの人は我慢しない。お金で解決できることは、躊躇なく即座にお金で解決する。それはお金があるからそうしているんじゃなくて、「お金で解決できることは。第一選択でお金で解決しているから」、お金が入ってきているように見える。ストレスもなく、意志力もふんだんに楽しいこと、やりたいことに使えるから幸せそうだし、当然ポジティブに生きることができるだろうから、仕事も上手くいきやすいんじゃないか。

 

お金は大事。無駄なことには使いたくない。これからもそれはずっと変わらない。でも若い時と比べて、時間とかストレスとか手間が、「無駄」とは思わず、真っ先にお金を使って解消するべきものだと思うようになってきた。

この流れはずっと続くんだろうか。続くような生き方が出来れば、割といい人生を送れている証拠なのかなと思う。

4,5分頭に浮かぶこと

あまり後悔をしなくなってきたけど、だからといって希望が全て叶えられているという訳でもない。上手くいかないことに対して、「まぁしょうがないかな」という諦めを、割と冷静に受け入れるようになってきただけ。

若い時分は叶わないことをどうしても受け入れることができず、あがらい、違う方向へ突き進むパワーに勝手に変わっていった。変えたじゃなくて、勝手に変わっていた。そうやって、違う何かで達成感を得られたり、叶わぬことを忘れたりもできたけど、年を重ねていくたびに、勝手に変わらなくなったし、その内変えようともしなくなった。良くも悪くも諦めがよくなったということか。違う方向にいったパワーがとんでもない方向に暴走して、また何か後悔する原因を作ってしまうこともあったので、今は今で丁度いいんだと思う。

 

とはいえ、あの時希望が叶っていたら、どうなっていたかなと思うことはある。物とかお金とかそういうことは浮かばないけど、人との付き合い、関係でそう思うことがある。ひょっとしたら、あの方はメンターになっていたかもしれないし、彼とは今も友人だったかもしれないし、あの人と同じ人生を歩んでいたかもしれない。そういうことが、極たまにだけど頭に浮かんで、4,5分考えたりしてしまう。

そしてそんな4,5分が悪いとも思わない。じゃあ叶わなかったからこそ、今はどう生きるのか、どうやればそれが叶った生き方と同じ満足を得られるのかということを、どこか頭の片隅に置きながら生きていることを再確認させてくれる。起きてることを受け入れながらも、それなりに真面目に生きていることを確認させてくれる。叶わなかったことに対するコンプレックスを、ごまかしながら生きてるんじゃないのかと思いがちだけど、そうじゃない自分を確認できている、たった4,5分だけど、極たまに頭に浮かぶこの時間のおかげで、今の人生を肯定出来ている。

 

歳をとれば、上手く叶わなかったことに対して向き合え、それを良い方向に活かせるようになっていく。反抗反逆の爆発的なパワーを、若い時の叶わなかったことは与えてくれるけど、年をとってからの叶わなかったことに対する想いは、そうやって全てをプラスにしてくれる。

 

なんかそう信じて生きていけたら、もっと幸せになれんじゃないかなと思う。

すべらない話がすべるようになった件について

人志松本のすべらない話」と言う番組が昔好きだった。知らない人の方が少ないと思うけど、芸人さんがこれぞ鉄板という面白い話を披露し合う番組で、そこからブレイクした芸人さんも多かった。その中でも、特に贔屓にしていたMさんという芸人がいて、番組内で披露した数々のネタ話の中でも、特に好きだった話があった。

先日、ふとツイッターを見ていたら、その話のことが書かれていて、「あの話で笑う人がいるなんて信じられない あれは性被害の話」というのを見て、自分の中でその話とMさんという芸人に対する意識がひっくり返った。確かにそうだと。言葉で表せないぐらい、深く深く、確かにそうだと再認識した。

もう笑えない。あれだけ笑っていたのに、笑えない。芸人のネタ話だから架空の話かもしれないけど、もう笑えない。

 

当時番組内でも、参加した芸人一同大爆笑だったし、このネタに関してこのツイッター以外にネガティブな意見を、少なくとも俺は聞いたことがない。放送当時のTV局内でも、問題があるという認識はなかったから流したんだろうし、DVDだって未だに売っている(はず)。友人とこのネタ話のことを何度も話したことがあるけど、友人たちも普通に爆笑できる話として認識していた。

このネタが出たのは2006年らしく、当時から見ていたので、俺も17年間このネタで笑っていた。その笑っていた俺が、その芸人やTV局を批判する権利なんて無いし、言おうとも思わない。万が一、何かの拍子にこのネタの件でこのMという芸人が非難されても、俺はかばうと思う。でも今、改めてこの話がTVで流れてきたら、思い切り不愉快になる。

あれだけ爆笑し、楽しいネタ話だったというのに、たった1つのツイートを見た瞬間急に笑えなく、不快になった。180度の手のひら返しは、自分でも俺は卑怯だと思えるぐらい。でもそれだけ一瞬で真逆のものになった。自分でも驚くぐらい見事に。

 

TVの芸人のネタに対する解釈、価値観の話であるのだけれど、それは今回たまたまであって、他にもこんな感じで解釈や価値観が劇的に変わることってあるのかもしれない。特に、変わらないと思っている価値観ほど、案外簡単に、コロッと変わってしまうような気がする。

良いように言えば、このツイートを見て、「でも面白いんだからいいわ」で済ますんじゃなく、一旦その違う価値観を受け付けて、今の自分の持つ価値観に照らし合わせてみて、考えを変える事ができたのは良かったと思う。

 

あれだけ笑えていたネタ話が自分の中で無くなった、好きだった芸人が、ちょっと自分の中で微妙な位置になった。なので、悲しいことなのかもしれないけど、多分スルーしているより、考えを変えた人生の方が、より誰かを傷つける機会が少ない人生なれたと思える。なのでよかった。

こうした方がいいよ、ああした方がいいよ

若い人に、「こうした方がいいよ、ああした方がいいよ」って、たまに言う。こうした方がいい、ああした方がいいが、年の差やポジションを意識させた圧力にならないようには注意するし、こうした方がいい、ああした方がいいという直接的な言葉ではなく、また違う言葉で表現する時もある。そうやって、それなりに気を使いながらも、たまに言う。

でも大抵それは流される。人徳が無いせいもあるけど、そもそもそういった上からの要らぬおせっかいなんて、ウザすぎて聞く気になれないんだろう。俺が若い時も同じだったから、本当によくわかる。あからさまに不愉快な態度で返していた俺と比べて、今の若い人は優しく賢いから、表向きは爽やかに肯定的に受け入れてくれる。でも行動や発言に反映されないから、本当のところでは受け入れていない。でもそれでいいとも思う。

 

年齢を重ね、それなりの成功も失敗も繰り返してきて、その時初めて「あの時言われたことの意味はこういう事だったのか」と腹落ちすることがある。何度も言われていたことで、都度却下していたことが、それなりに正解だったという事に気が付く。自分にとっては正解で無かったとしても、また別の正解の可能性があった、少なくとも間違ってはいなかったと気が付く。

骨身に染み込ませながら長年経験していくものは、自分がリアルに体験しないとわからない。若い時にそれを言葉で聞かされても、受けいれるのは難しい。どうしても埋められない歳と経験の差、そして発する方の語彙の限界と、受ける方の読解力の未熟さで、言葉では伝わらない。

 

真面目で、向上心のある人なら、自分で考えて発言や選択や行動を決めていく。その時に立場も年齢も違う人から言われることが、自分の正義とストレートに重なる可能性の方が少ない。年上のいう事を盲目的に受け入れて、大して考えず、発言や行動に繋げる人間なら違うのかもしれないけど、そんな人間に、年上側も何かを言おうとは思わない。真面目で頑張って、成長しようと思っている若手の人だからこそ、何かを伝えたい。伝えたい人だからこそ届かない。

 

歳を取ると、そういうことがなんとなく見えてくる。若い時の俺にそう言ったことを発してくれた人も、どこか伝わらないと分かった上で、ウザがられるのを百も承知で投げかけてくれていたんだろう。そこには優しさがあったんだと、同じ立場になり、今更気が付く。ありがたかった。

 

だから若い人にこうした方がいいよ、ああしたほうがいいよという事が、無駄なこととは思わない。声をかけてくれた年上の人間に、自分は大事に応援されていたということに何時か気が付ける。それって歳を取ってからもらえる、ボーナスのようなものなのかもしれない。

 

 

 

あの時、色々言葉を頂いた年上の皆さん、その節はありがとうございました。当時、失礼な態度を取ってすみませんでした。でも歳を取らないと、そのありがたさがわからなかったんです。同じぐらいの歳になって、ようやくわかったんです。