書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

ハードディスクにインストール

人と会って刺激を受けて、真似たり、反面教師にしたり、何かを閃いたりする。そうやって刺激を受けるのと同時に、その人が自分の中のハードディスクに「インストール」される。その人によって、濃く記憶されたり薄く記憶されたり、容量の違いはあるのだけれど。

インパクトの強い刺激の与え主は、名前付きでインストールされる。その後の何かの拍子に、「あの人ならこうするよな」とか「あの人ならどうする?」とか「こんなことしていたらアイツと同じだ」とか、名前付きで俺の人生の主張や選択や行動に関わってくる。

名前が付かない人でも、インストールされているのは変わらない。親兄妹、パートナーに、親友・友人、仕事で濃く絡んでいる人は勿論、時にはその場限りの人からも何かを感じ、影響を受け続け、自分の主張や選択や行動に影響を与え続ける。そうやって刺激を与えてくれる人が、ハードディスクにインストールされ続けていく。
インストールされている人数は、生まれてこの方何百人、ひょっとしたら数千人になるのかもしれない。本やネットで刺激を受けた人をいれたら、更に増えて万単位まで膨らむかもしれない。その俺にインストールされる人も、同じように何百人、何千人、何万の人をインストールされてきていると考えたら、指数関数的にもの凄い数の人が、自分の中のハードディスクの中に記録されている。自分の発言や行動は、そのハードディスクの中にいる多くの人の記憶が反映されたもので、それがまた自分に関わる誰かに刺激を与え、誰かのハードディスクに記録されていく。

ハードディスクに記憶されている何百万人の影響で俺は出来ている。何を思うのか、何を話すのか、どう動くのか、そのハードディスクから影響を受け続けている。

オリジナルってなんなんだろう。誰かの記憶が詰まったハードディスクで出来ている俺のオリジナルって、どこにあるんだろうか。その何百人か、何千人か、何万人かの記憶の集合分の1として、俺の何かを掛ける事で俺のオリジナルが出来ているとしたら、オリジナルなんて、とてもとても小さなものだと思う。とはいえ、その小さな小さな何万分の1で他人と違う俺になるのなら、それは尊いオリジナルと言っていいんだろう。そうやって出来た俺のオリジナルが、またどこかの誰かのハードディスクに記憶されて、生き続けるとしたら面白い。

刺激をくれた無数の誰かのおかげで自分は出来ている。その自分が誰かに刺激を与えることが出来て、どこかの誰かの何万分の1として記憶されるのなら、人生サボれないよなと。いい加減に生きることなんてできないなと思う。