書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

わからないながらも

先週、会社の人が「不幸な選択」をされて、一昨日その経緯の説明を受けに東京の本社に呼ばれた。経緯も何も、違う部の方で面識が無い。直接話もした事も無く、メールもCCで1回か2回しかやり取りをした事が無い。事が起きて1週間も経っておらず、会社も完全には事情を把握もしていない。

それでも俺のような人間にも、直接面談で伝えるという事から、それなりに仕事や会社起因のものだったことがわかる。調査中で、プライバシーにも関わる事なので、極々簡単な背景説明を受けた程度で、後は今仕事や家庭で悩み事が無いか、あれば話をして欲しいという事と、メンタルヘルスに対しての会社の考え方、産業医を含めた支援制度、休職制度等々の説明を丁寧にしてくれた。

その方を存じ上げないので感情移入は出来無い。でも会社の仲間という身内が、不幸な選択をしてしまったという、何とも言えない不安というか、怖さというか、悲しさというか、その辺が混ぜこぜになった感情で、1日ずっと頭の中がいっぱいだった。

 

49年生きてきたけど、人生が終わることを未だに上手く想像できない。それも自らの手で閉じてしまうなんて考えられない。中学生の頃、いじめられていた時ですら、そんな考えを起こさなかった。ただそれは、そういう選択肢があるということが、子供の俺には想像がつかず、現実的ではなかったから。最悪ながらも、それで逃げることが出来ると気が付かなかったし、気が付かなくてラッキーでもあった。あと少しだけ、人より反骨心が強かったのも幸いだった。もし万が一、大人の今、あの時の状況に戻ったとしたら、その選択を考えたのだろうか。垣根は低いのかもしれない。

 

人の苦しみなんて、完全には分からない。話を聞くことはできるけども、苦しみの全ては絶対に分からない。勿論肩代わりもできない。生まれも育ちも性格も違う、置かれている立場も違う他人同士わからない。家族であってもわからない。わからないは悲観的だとしても、見えにくいし、共感もし難い。

どんな人でも、それはキツく重いと思えるような事を背負っている人もいれば、他の人にはなんともなかったりするけど、本人にはとてつもなく重いと思える事を背負っている人もいる。苦しみや重たいものは、質も数も、人によってそれを重いものかどうなのかも全然違う。見え難いし、共感もし難くて当たり前。

本当の苦しみは分からないだろうし、共感も難しいだろうし、肩代わりだってできない。それでも苦しさや重さに気が付き、どこまでできるかわからないながらも、共感する姿勢を示してあげることだけでも、相手にとっては救いになると信じたい。それしかできないし、それで救えなければ、何が出来るのか。

 

何も背負っていない、戦っていないという人はとても少ないと思う。みな何かしら背負い、戦っている。他人にはわからない苦しみをもって、戦い生きている。

自分も、何かの拍子や降り掛かる苦しいもの、重いものによっては、同じ選択をしないなんて言いきれない。躊躇せず、周り人にSOSを求めようと思うけど、実際は中々できないんじゃないか。追い込まれるという事は、人に言おうという発想すら出ないレベルまで追い込まれるという事でもあり、追い込まれている事自体、本人が自覚出来ない時もある。

だからやっぱり、回りが気が付いてあげたい。誰かがそうなら、気が付いて手を差し伸べてあげたい。わからないながらも、先ずは気が付く事。気が付き共感して、酷い様なら医療機関に連れて行きたい。

 

不幸な選択をしてしまった方の事を、人事とはちょっと思えない。