四捨五入で50にもなると、どうせここで努力しても、それが実る頃と、実った成果を謳歌できる期間も短いと考えたら、意欲が薄れそうになる。年を取り始めると、そういう努力に対するストッパーが出てきて、年を取る度にそのストッパーの高さが高くなっていく。
努力するにも努力がいる。
50にいってない俺でもそんな事を意識せざるを得ないのに、たまに80を超えたようなお年寄りが、何時までも学び続ける姿がニュースになる。高校や大学に入り直したり、新しい研究に手を付けたり、今の若者がやってる事に挑戦し始める事なんかがニュースになる。
心底凄いなと尊敬する。と同時に、大変失礼を承知で言うと、その努力は「報われる」んですか?となるし、努力分は「回収できる」んですか?と聞きたくなる。
そういったお年寄り程、今迄も無駄に生きて来た訳でも無さそうなので(そんな人に限って、凄い経歴や今がある)、それに浸って生きればいいじゃないですかって思ってしまう。そんな人たちが、時間が掛かり、回収できないかもしれない努力を、これから始めるモチベーションは何処から来るんだろう。
努力は苦痛なだけでは無く、目標達成への努力自体を楽しむことは出来る。だけどそれは、結果を得られてから、あの苦労も報われたよなと感じたり、または限界までやって、結局叶わなかったときに出てくる、「あそこまでやったから満足だ」という、言わばゴールしてからの、ふりかえってからの、「楽しさ・報われ」であって、おまけのような、参加賞のように思えていた。
ただ近頃それが少し変わってきた。叶えたい過程の努力自体を先ずは楽しみ、その次に達成を意識しようと思いはじめてきた。
目標が資格なのか、何かの記録なのか、何かの順位なのかに限らず、その時の運もあるだろうし、記録、順位は運だけでなく、他人にも左右される。大方の目標は、自分の努力以外の事に、程度の差はあれ左右もされる。苦労して取った資格が役に立たなくなる生き方に進む事もあるだろうし、それこそ、目標にたどり着くまでに寿命を終えるかもしれない。
目標達成を狙わないわけじゃないけど、目標達成を第一に置くのは、完全に未来をコントロールできない以上、虚しいのかもしれないと思うようになってきた。なんなら、達成はおまけでもいいのかもしれないとすら、思うようになってきた。
絶対ではない目標達成よりも、過程の努力に価値を置きたい。過程の努力を楽しみたい。
努力する才能の無い凡人が努力するコツは、こんなところにあるのかなと思う。