書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

「営業マン」と呼ばないで

「営業マン」と呼ばれるのが凄く嫌だ。
 
稼いでくるという意味では、営利組織の主役とも思っているので、営業職自体には誇りを感じる。要は「営業マン」という言われ方が気に入らないという話。「営業」で止めてくれたらいいのにと何時も思う。なんで「マン」を付けるのか。総務マンとか業務マンとか開発マンとか言わないのに、なんで営業だけマンを付けるんだろう。
 
「営業マン」という単語からは、昭和の感じがする。精神論、気合でなんとかしろな、頭を使わない、動物的な感じがする。飛び込み営業で、ただただ足を使って訪問件数を稼ぎ、ひたすら扉をノックし続けるようなイメージが浮かぶ。そして「営業マン」と言ってくる人の何割かは、そんなイメージが現実と知ってて、「営業マン」とこちらに言ってくる。ちょっと小馬鹿にされてるのもわかるし、それもしょうがないかなと思う。
 
イメージじゃなく当たってるし、当の俺がそうだったから。
 
今はそんな営業を求められる場にいないので、会話で「営業マン」と出てきても、関係無いよと突き放せるし、同じようにバカにする側に回ることも出来なくない。
でも営業職としての土台は、やっぱりこの時代の、この「営業マン」の経験から作られている。今いくら上品ぶって、意識高い系の本を読んで、スキルだ何だとカタカナ語を使っても、根は此処にある。ここで「営業マン」をあざ笑うのは、都会に出て成功した人が、生まれ育った故郷の田舎をバカにするようなのと似た感じがする。ここを否定するのは、そこから繋がってる今を否定してしまう。「営業マン」だった自分を美化したくも無いけど、バカにしたくもない。
 
なので「営業マン」という言葉が出てくると、過去の嫌なイメージにその実体験と、でもそれがあっての今の自分という葛藤の中で悶々とし、その会話自体が入ってこなくなる。
 
昔を否定しないけど、過去のあの時に引き戻されるのは嫌。
なので「営業マン」という言葉を、これからも否定し続けるんだと思う。