書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

相談について

 

 

f:id:UESUN27:20190308083415j:plain


相談に乗るのは嫌じゃない。どうやってそういう事が起きて、それをどう乗り越えて、ハッピーな物語を描きたいというのを聴く事は興味深いし、その物語に間接的にであれ、加われるのは嬉しい。単純に困ってる人の力になりたいし、悩みを出す位、信用してくれてるという事は光栄に思う。いやらしい話、逆にこちらが苦しい時は親身になって力を貸してくれることも期待できるし。

 

ただ、相談を受けて、結果何か此方から投げるとしても、それをどこまで受けてもらっていいのか考える時がある。前提条件を投げられて、知ってる限りで、相談を持ち掛ける人の性格や、その他諸々を考えたら、「こうじゃない?」と投げるけど、それってあくまでも断面を切り取って投げてるだけな気がする。気がするというか、多分そう。

別の日に相談されても、投げるものはそんなに大きくは変わらないと信じてるけど、それでもわからない。ひょっとしたらお互いのその日の気分や言い方で、何か変わるかもしれない。それが相手も理解してくれていたらいいけど、そうじゃなさそうな人も結構いる。「こうじゃない?」の最後のクエスチョンマークを取られて飲み込まれるのが怖い。

 

その人じゃない限り、全てを知らない。本人が気が付いてて、意図的にその事を言わないならまだしも、無意識で気が付いていないことだってある。その知らない事が、案外その投げられた質問に関しては大きかったりするかもしれない。たまに竹を割ったように、スパッと「それはこうだからこう!」っていう人がいるけど凄いと思う、嫌味でなく凄いと思う。俺は中々そこまで言えない、口調はそうであっても本心はそうじゃない。俺だって、その人との関係性によって出してる自分は違ったりするし、誰にも言わない、言えない感情や思いだってあるので、他の人も大なり小なりそうだとも思ってる。というか、全部出してるなんていう奴は、逆に怪しい。

なんというか相談って、持ち駒が一部見えてない将棋のアドバイスをさせられてるような感じがする。その見えてない持ち駒がいくつあるのか、どんな駒なのかもわからない中で、あそこに駒進めてこうしたらって言う感じ。リスキーさが消えない。

 

芸能人がたまに雑誌やTVでこういう相談受けてぶった切るけど、アレは楽でいいなと、勝手に上から目線で見てしまう。ああいった感じで言いっぱなしで、ハイ、さようなら~とは此方はいかない訳で。そしてあちらは相談者もそんなもんだと割り切ってる節もあるし。

 

「じゃあ、あなたはどうしたいの?」と返し、極力自分の意見を出さずに凌ぐのが無難。でも、そもそもそれがわからないから相談されるわけで、その言葉は逃げな気もする。求めるのは「あなたはどうしたいか」の深堀りだけど、それをそのものズバリの言葉で投げかけるのは、味気ないし、無粋な感じもする、突き放してるような。

なので受けるものの礼儀として、その言葉を使わなくても同じように、「あなたはどうしたいか」を深堀出来るだけの力を持たないといけない。それは考え方であったり、語彙力であったり色々あるんだろうけど、先ずはそういう意識を持っておきたい。

 

意識無意識関わらず、その人のすべてがわからない以上、最適な答えとかアドバイスは相談では出てこない。結局相談の答えって、相談してきた人が自分で見つけるしかない。相談を受けた者がやれる「確実」な事はそれを即すだけ。

受けた相談の中で答え「的」なものを出す事に限らず、もやもやした物しか残らなかったとしても、結局最後にそこに行きつけば意味があると思うし、自分で相談を受けていても、最後はそれが希望というか救いになる。

 

相談を受ける以上、最後の最後、その人の考えを乗せる余地のある投げかけを出せるようにしたいなと思う。