書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

何かを得るなら

アマビエ」が流行っている。疫病の蔓延を防ぐ | ひきこもり FOR YOU
 
この騒動、現時点でも確実に今後の教科書に載るような情勢でもあるけど、これがどのレベルまでいくのかわからなくなってきた。日に日に情勢が悪化してきてて、ドラマとか映画のような非常事態に入りつつある感じ。本当に現実の出来事なのかと、今でもちょっと疑うぐらい。
 
医療機関に対して仕事をしているという事もあって、どうしてもという状況でなければ来ないでくれって言われてる。そらそうだ、ピリピリしてる中、邪魔も出来ないし、我が身を守る意味でも行けない。
此方側だって、海外も国内も物流がじわじわ厳しくなってきてて、商品自体が入らなくなってきた。なので呼ばれても行けない。
今、はっきり言って仕事にならない。する事がなく暇になりつつある。
ウチの業界だけじゃなく、結構な数の業界が大なり小なり仕事は減ってるだろうし、暫くの間経済は停滞し、社会はスローペースになるんだろう。
 
でも誤解を恐れずに言えば、これはいい機会なのかなとも思う。
 
俺みたいな、自らあくせく働くのが好きな奴は別として、みんながみんな、もうそんな仕事の仕方をするのをやめるいい機会なんじゃないかなと思う。
満員電車にすし詰めになって、早朝から深夜まで仕事する流れを変える、いいきっかけになるかもしれない。
メンタル的に病気になったり、過労死するレベルで働く人を減らす、いいきっかけになるかもしれない。
 
大混乱の中、こんな事あんまり大きい声では言えないし、そうは言っても、食っていけないとか言われるかもしれないけど、こんな形であれ、それらが変わればと思ってる。
この騒動で何かを得られるなら、それじゃないかなと思ってる。
 
早くこの大疫が終結して世の中が平穏になって欲しい。その時に、「あの時、そんなに仕事しなくても何とかなったんだから、これからはもうちょいゆったりとした生き方しましょうよ」って話が出てきたら嬉しい。
 
そしてそれが現実になったらもっと嬉しい。

変っていってる を自覚する事

 

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自分の価値観、嗜好って、変らないように思えて変わっていってる。

年を取り、肉体的にも精神的にも、時間が経つにつれて、確実にあらゆる事に関する価値観や嗜好は、少しづつ変化していってる。ただ、その変わっていってる量や質が、態度や行動、言葉に反映されるレベルで変化したかどうかは別。だから表向き、そんなに簡単には変わらないだけ。

 

怖いのは、その変わっていっている事に自分自身が気が付かない事。

常に変わっていってるという事を、無自覚でいる事。

 

変化が積み重なっていって、ある日突然、今迄のような、自分にとっては当たり前な態度や行動や発言に、急に違和感を感じる。「なんで?」と内省し、後で心の中をほじくり返していくと、その変化が積み重ねられた結果、自分の外に出す態度や行動が、今迄とは違うレベルで変わってる事に気が付く。

 

自分自身の価値観と嗜好なのに、当の本人が完全に把握できていないって怖い。自分はおかしいのかなとも、たまに思う。でも毎回毎回、都度都度考えて、その小さい変化をしている事に対して把握しろなんて無理。そして無意味だとも思う。

 

自分を俯瞰して、毎日毎日価値観や嗜好が少しづつ変化している事を頭に入れておきたい。

自分の価値感、嗜好を、完全には理解できていないという事を自覚していたい。

 

この二つを意識したら、生きるのがちょっと楽になると思う。

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人の人生って、河のようなもので、人はその中を流れる1匹の魚。

河の大きな流れに乗り、下流に向かって進み、最後はみんな同じ場所にたどり着く。

 

河は人それぞれ。激しくうねって、激流の人もいるだろうし、穏やかで一本調子の人もいる。淀川もあれば、江戸川もあるし、ドナウ川もあればミシシッピ川もある、凄いのだとアマゾン川みたいな人もいる。

共通なのは長さがあり、川幅もあり、曲がりもあり、起伏もあるという事で、ただそれが人によって全然違うという事。そして各人の河は各々の河で、変えることが出来ない。淀川の人がアマゾン川の方がいいと変えれないし、逆もしかり。

 

河は変えられない。平等になるのは海にたどり着いて死ぬとき。その時初めて平等になる。人間、全てが平等というのは、大人ならみんな知ってる。どんな両親の元、何処の国に生まれて、どれほどの富と愛情を与えられ、育てられたかという事が、かなり大きな要素を占める。

勿論個人の才能と努力も大切。でも先ずはそれを開花させるチャンスと、適切にそれが生かせる環境があるのか無いかで話が違う。河とはそういう事で、自分が淀川なのか、アマゾン川なのかはわからないけど、河は絶対的なものとして、その中で人は泳いでいる。

 

人生とは河。出来るのは、その与えられた河の中でどう動くかという事。人より流れが激しいからと言って嘆いても仕方が無いし、あっちの河の方が水が澄んでるといっても変えることなど出来ない。出来ることは自分の河の中、その長さと、幅と、曲がりと、起伏の中で最善を尽くして泳ぐこと。

誰かを見て、その人と同じことを盲目的にやっても同じことは成せない。泳いでる河が違う。自分は簡単にできる事を、出来ない人がいたとして、それを揶揄したりするのはフェアではない、泳いでる河が違う。

 

誰かに憧れる、参考にする、目標にするはいい。でもそれも程々にしようと思う。誰かと比べて経済的に恵まれてない、美醜のコンプレックス、身体的なハンデキャプを呪うのもやめたい。他者と比べた結果に一喜一憂するのは辞めようと思う。

自分の河は自分だけの河だし、その中で泳いでるのは自分。自分の河を、自分で最良と思う、最善と思う泳ぎをしようと思う。その結果が自分で思うベストならそれでいい、それが間違いなくベスト。他所の河で違う結果が出ようが関係ない。長さも川幅も曲がりも起伏も違う、泳いでる魚も違うのだから、比較なんて無意味。自分の河で自分が泳いで最良なら、もうそれが最良。だから他所を見て、安易に影響を受けるのは辞めようと思う。

 

誰かと比べて嘆くことや、誰かを必要以上に憐れむのをやめようと思う。他人の河のを見て羨ましがったり、何もその河をわからないのにバカにしたりするのはやめようと思う。

 

大きな河でも全然泳がない人より、例え小川でも、伸び伸びと泳いで飛び跳ねてるような人を尊敬し、手本にしていきたい。

選択

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3日前は自分が主催者、昨日は一参加者として、ある経済評論家さんの私塾関係者が20人以上参加する集まりに出た。どちらも堅苦しい事言わずに、集まって話しましょうっていう会で、時節柄なんか忘年会のような感じになった。

 

思えば数年前、酔っ払った勢いで、この私塾に参加申し込みをしたのが、先ずはこの集まりに繋がるナイスな選択のはじまりで、その後、その経済評論家さんを一目生で見ようと思い、勇気を出して実際の集まりに顔を出したのが、ナイスな選択の二番目。そこでやさしい仲間に声を掛けて頂き、繋がり、今に至る。

 

至るんだけど、そこに至るに色んな「選択」があった。私塾の勉強会に行くとか、行かないから始まり、塾生の中で、頭を取って何かをやるとか、やらないかとか、塾生仲間に頼まれた事を手伝うか、手伝わないかとか。思えば数えきれないほど、選択してきた。熟考を重ねて選んだ選択もあれば、ノリや勢いで選択したのもある。その選択の結果、思いがけない素晴らしい経験もさせてもらえたし、仲良く、多くの刺激を受け合える友人も沢山出来た。ギリギリ覚えもらえてるかの感じで、その尊敬する経済評論家さんから、名前で呼んでもらえるようにもなった。

 

勿論、良い事ばかりでもなく、選択を間違ったのかと思う様なこともあった。単純に不愉快な行為を受けた事もあったし、要らぬ争いごとに巻き込まれた事もあったし、利用させられそうなこともあった。でもそこに至る選択を繰り返してきたのも自分なので、しょうがない。良かれと思った選択がそうじゃなかったという事もあるという事で、受け入れないと。

 

仕事で成功する、試験に受かる、ある人と結ばれる等々、こういうのは反対の結果が出た時に、選択を間違ったと思いがちだけど、そうは言い切れないのではと思う。この仕事で成功しなかったから、違う仕事で成功し、違う幸せを掴む事もある。試験に落ち、当初望まない学校に入ったとしても、そこで人生を変える気づきや出会いが待っているかもしれない。結ばれなかったとしても、最高の友人になれたらとても素敵な事だと思う。

 

その選択が正しかったのか、そうじゃなかったのかなんて、死ぬ間際になって、ぼんやりわかるかもしれないぐらいで、正確には死んでもわからない。並行して、違う選択をした場合の人生を追体験なんて出来ないし、自分の選んだ一本の道の選択の絶対評価でしか判断が付かない。

だから、ああしていればよかったとか、こうしなければよかったとか、後になってその時の選択を悔やむ事は、無駄な事なんだと思う。そう都合よく割り切れないのが人間なのは、百も承知で。

 

人間、誰でも日々何事も選択をしている。勤め人であったり、家族がいたりして、選択の余地がないことだってあるんだけど、それだって奴隷でもない限り、拒否すればいい。強制された事をしなければ命が脅かされる状態でない限り、何事も自分が選択している。全て自分が選択して、その結果が今。

 

大事なのは、日々の選択を後悔の無いよう真剣にすること。

そして、その選択の結果を受け入れ肯定する事。

望まない結果だとしても、その後の選択の積み重ねの先、最高で一番の幸せが待っていると信じる事。

 

今回の集まりの場に自分がいる事も、より良いと思う「選択」を今まで繰り返してきたから。この集まりの場でも、思わぬ新しい繋がりが出来たし、昨日の昼までは会えるとは思えなかった仲間にも会えたし、言葉も交わせた。そして、そこで交わした言葉や繋がりも、自分がその行動を選択した結果であり、それが後々の何か大きな動きに繋がると信じたい、それが幸せな動きに繋がる選択だったと信じたい。

 

なんかみんなで飲んでる最中、楽しくて楽しくて仕方が無い中、ぼーっとそんな事を思っていたし、みんなで帰って、解散していって、最後に一人になった時、この考えが頭の中によぎった。

 

今迄、良い選択をしてきたんだなと思う。

真理

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世の中でどう見られているか、どう解釈されているか、それに対してどういう流れなのか、客観的に見ること、理解することは大切。

 

でも自分にとって、どう見え、どう感じ、どう動こうと考えたのか。世の中のそれと、俺のそれはまた別の話。

 

俺の判断が俺の全て。

俺の中で正しい事が、俺の世界では正しい。

世の中で正しいことが、俺の中で正しいとは限らない。

俺の正しいことが、世の中で正しいとも限らない。

 

俺の正しいを堂々と追及していきたい。

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ここ1週間、とても忙しいながらも、楽しく、やりがいもあり、頼られた日々をおくった。満足してたつもりだけど、充実していたつもりだけど、何処か違和感を感じていて、昨日1日家に籠って、うっすら見えてきた。

 
自分にとって一番大切な価値観は、主体性を発揮できるかできないかということ。主体性を発揮できるかということは、自由な状態なのかどうかということ。どれだけ楽しくても、どれだけやりがいがあっても、どれだけ必要とされても、自分にとって他人からの「枠」が大きく意識される下にいるのは、やっぱり疲れてしまう。どれだけ美味しいご馳走でも、誰かが目の前に置いて、それをただ単に食べるよりかは、自分で迷いに迷って、大して美味しくもないかけうどんを食べる方が、自分にとって価値がある。
 
ゆっくり、ゆっくりだけど、そしてこの年になってようやくだけど、何が本当に大事で、何が本当に大事じゃないかがわかってきたような気がする。わかるというのは、その方向に舵を切る事も含めて、わかってきたような気がする。
 
満足できる主体性を発揮するために、先ずは今ある枠をもっと大きくしたいし、最終的には枠そのものをなくしたい。
そこに至るか至らないかはさておき、そこを目指すのが、自分にとって心地よい苦労をするという事なんだと思う。

頭の中のテトリス

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仕事でも遊びでもなんでもいいんだけど、アクションとアクションの間って、頭の中で「テトリス」を隙間なく組み直している。テトリスの各パーツは、自分や相手がアクションで取った発言とか、反応、しぐさや態度。それをもう一回、頭の中で組み直してる。

 

アクションが上手くいかなかった時、テトリスの組み合わせが隙間だらけだった時は必死で組み直すし、上手くいった、テトリスが奇麗にハマったと思った時は、確認の意味、安心する意味で、頭の中で同じように組みあげてる。

 

端からは、多分ぼーっとしてるように見えてるんだろうけど、そのぼーっとの中で、テトリスのパーツを必死で動かし、回している。隙間なく詰めていって、それでも隙間が出来るところは成長への課題なのか、はたまた運とかどーしようもない事なのか考えてる。

 

そうやって、頭の中で必死でやっていた事の振り返りをしている。アクションが次に続くなら、次の機会どう動くのか課題を出すし、完結したとしても、似たアクションに対して、より良くするための対策を練ってる。稀に満額回答なアクションが出来たとしたら、自分を認め肯定してる。

 

やらないと気持ち悪いし、そのアクションが、自分の中で完結しない。テトリスを終えておかないと、そのアクションをやった価値が下がる。前のアクションが無かったかのような感じになる。

 

最初のアクションで隙間なく詰めれたらとも思うけど、頭の中のテトリスが出来なくなるのはちょっと寂しい。