書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

日記

10年以上、その日あった出来事や感じたことを、毎日メモにして書き残している。1日大体2,000文字ぐらい。自分では日記と呼んでないけど、どう考えても日記以外の何物でもない。書き始めてから始めて知ったけど、日記を付ける最大のメリットは、その経験から距離を取れること。起こった現象感情に関して、執着せずに距離を取れること。書き終わって見返した時ではなく、書いている時点で距離を取れている。


距離を取れるという事は、当事者から語り手になれるということ。経験や物事から距離が取れると、今に至る状態は、自分が選択してきた結果だと噛みしめることが出来る。怠けて出来なかったことも、自分がそう選択してきた結果だし、運にも恵まれ何かを成したことに対しても、多少なりとも、自分の選択の結果だったと認めることが出来る。

自分のみに起きることは、自分の力や選択の結果が全てではないけど、どれだけ小さくても影響を与えることが出来たと確認が出来る。楽しい事は勿論だし、辛くしんどい事であっても、死んでいないし、重大な不幸に見舞われてもいない。それはホンの少しでも、自分をコントロールしてきた結果、今に至れているということを噛みしめることが出来る。そう思えることで、何度か救われてきた。

 

そしてコントロールしてこの場に来れた以上。この先もコントロールできるという、肯定感を生んでくれる。何処までなのかは時と場合によって違うだろうけど、それでもそこに思いを掛けることが出来る。俯瞰して眺めて、自分の人生の脚本家になれる。

 

という訳で、日記書くのめちゃくちゃおすすめ。

より多き人生を望む

良い事しか起きない人生だけど、それが1万回しか起きないような人生より、6千回の良い事、6千回の悪い事が起きる人生の方がいい。勿論良い事が多い方が望ましいけど、悪い事を含めてでも、出来事や心が揺れることが、より多き人生を望む。

別に一つ一つが大きなこと、衝撃的な出来事でなくてもいい。些細な事でも、ちょっとした気が付きでもいい。ただダラっと過ごして、出来事や変化に気が付かない、それに反応しない、揺らされない人生よりも、気が付き行動したり、何かを感じる方が多い人生をおくりたい。その中に悪い事がそれなりにあったとしても、それでもそちらを望む。人生、どれだけの出来事に対して、自分自身を浸らせることが出来たか。それを意識する生き方に、軸を移したい。

 

出来事をどれだけ自分事として受け止めることが出来るか。

周りの些細な変化を、流さずに捉えられるか。

 

レベルの高い感受性と、それを受け止め続ける、強度の強いアンテナと、良きも悪きも一旦浸り、そこから自分を切り離し、眺めることが出来る客観性を持っていたい。

終わりなく、死ぬまでその3つを持ち続けたいし、鍛え続けていきたい。

 

人生、時間に関しては不平等だけど、中身の濃さという意味では自分次第。

と、信じる。

飛行機で飛び回る

昨日、出発30分をギリ切った時間に空港に着き、10分少々で保安検査場を抜け、出発5分前に搭乗ゲートに到着。そのまま最終ゲートも通過し、さもこれが当たり前な顔して、飛行機に乗り込んだ。慣れたなと。国内線だけど、飛行機での移動に本当に慣れたなと、しみじみ思った。鼻息荒くどうやと。電車に乗る感覚で飛行機に乗る、自分にもそんな日が遂に来たかと、何とも言えない感じになった。出発1時間前にはロビーで待機していた昔の自分が可愛いと思う位、今は飛行機での移動に慣れた。

 

出来る社会人っぽくてカッコいいという、至極あほっぽい理由で「飛行機で飛び回る」という、目標があったけど、一応それが叶ったかと、昨日初めて意識した。

でもなれた訳じゃない。たまたま飛行機じゃないと行けない遠隔地を担当しているだけ。毎月2、3回飛行機に乗っていれば慣れるのも当然だし、このスタイルに入ったのも数年前からなので、そう考えたら意識したのは遅すぎるかもしれない。

叶わないより叶ってよかった。ただ本当に望んだのは出来るビジネスパーソンであり、それの象徴として飛行機に乗りまくる自分を目標にしただけ。たまたまイメージしたのが、「飛行機で飛び回る」だっただけ。イメージしたものが、「タクシーで移動しまくる」だったら達成されてない。だから望んだものは叶っていないし、急に目標をすっ飛ばして、結果だけ手に入った感じ。

今なら当たり前のように、「飛行機で飛び回る」が、仕事が出来る奴である証明にならないことはわかる。出来ない人間でも、「飛行機で飛び回る」という事を、自分で昨日しっかり証明もしたし。

 

今以上にあほだった若い時分、想像力が貧困だったのはしょうがない。むしろ我がことながら、そんなことに憧れていたこと自体、子供っぽくて微笑ましい。

まあでも、こういうお遊び的な、おふざけ的な目標を持つことは、全部が全部悪い事でも無いと思う。意外とそんなことが、追い込まれた時の自分を支える柱になったりもするし、いざ勝負の時、前に出て行く原動力にもなったりもするし。

 

本当に飛行機で飛び回ってるよって、叶うよって、若い時の俺に教えてあげたい。

でも、仕事が出来る奴にはなってないかもって伝えたら、どんな反応するんだろう。

いい日 に気が付けない

今日は「いい日」だったなと、ふと思える時がある。特別良い何かも無ければ、特別悪い何かも無い。大体の日はそんな日の筈なんだけど、そんな日の中でも、今日はいい日だったなと思える時と、そうじゃない時がある。いい日だったと思えれば、幸せな気分になれるし、1日頑張った自分を認めてやれる。でも大抵はそんな感慨を味わうことなく、気が付いたら寝てしまって、また朝を迎えている。思える日と思えない日との間に何か大きな違いはないように思うし、だったらそう思える日を増やしたい。

 

思い返せば、10分とか15分、力を入れるような、入れないような、考えるような、考えないような、そんなちょっとした時間を過ごしてる時に、「いい日」だったと思えている。意識ここにあらずとも、どこか遠くまで行ってないような。ぼーっとはしてない、でも強く何かを意識もしていない。そんな感じの10分、15分を持てた時に、今日はいい日だったと気が付けている。

 

特別何もない日でも、いい日だったなと思えるほど、割と人生恵まれているのか。

俺自身が相当呑気なのか。

 

多分その両方でもあるんだろうけど、だったらだったで、いい日だったのに、いい日だったと気が付けないことは勿体ない。幸せなのに、幸せと気が付けないのは勿体ない。

 

10分、15分のちょっとした時間を大事にしたい。

 

 

 

なんだけど、その10分、15分の大切さをその内忘れたりするし、なんなら意識しすぎて上手くいかないかもしれない。

 

結論。「いい日」は中々気が付けないもの。

おっさん同士

中学生時代、とても仲良くしていた友人が近所に住んでいる。お互い昔からここに住んでいた訳ではなく、同じ校区でも全然違う所に住んでいたんだけど、たまたま偶然、何十年も経ってご近所さんになった。とはいえ、極たまに遭遇するぐらいで、お互い気が付いたら会釈したり挨拶をする程度。朝だったらこちらは車通勤、彼方は駅まで徒歩。休みの日も、バイクだなんだで家の前に出ていたら、たまたま買い物帰りに通りがかってとかそんな感じ。中学の時はあれだけ遊んで、あれだけ話をしていたのに、今では飲みに行ったりもしない。お互い、住む世界もちょっと違うし、生活のリズムも違う。趣味趣向もあの頃から互いに変わった。おっさん同士、お互い年月を重ねるとそんなもん。


昨日、たまたま電車で仕事に行く事となり、同じく出勤途中の彼と偶然出くわした。駅までは一本道、何時ものように会釈や挨拶で終わらせる訳にも行かず、一緒に駅まで向かう。10分程度の道中、何かを熱く語るという訳でも無く淡々と話し合った。そっちの景気どう?とか、休みどうしてる?とか、近所のアレはどう?とか。極々無難な話を、極々自然に流しあう。笑いも起きたし、身振り手振りも交えた。

でも100%それが自然に、天然に出たものでもなく、お互いちょっと演技しあっていた。この話題が今の2人には相応しく、このタイミングでこう来たら、この間でこう返すよね、というものをお互い考えながら交し合う。これぞ大人の社会人のやり取り。端から見たら仲良さそうに、随分盛り上がっていたように見えたはず。でも当人同士は、適度な距離感を測り、適度な踏み込みをして、つまらなくも無いけど、端から思えるほど楽しくもない状態で語り合い、場で距離感を常に頭に入れ続けた。お互いちゃんとしたビジネスパーソンになったんだなと、ちょっと感動した。

 

会話と同じく、予定時間通りに駅に着く。同じ方向のホームだけど、お互い何も言わず、さりげなく俺は先頭方向、彼は後方に向かおうとした。それも今の関係では予定調和で、これ以上は一緒じゃない。別れのタイミングも、お互い完璧に間合いがあっている。

ただなんか、それがなんかおかしくて、最後に「お互い、おっさんになって、色々上手くなったよな~」と言ったら、一瞬間を置いて笑ってくれた。俺もそれを見て笑った。あの笑いは演技じゃないし、彼も演技の笑いじゃなかった。あの瞬間、中学時代の距離感にちょっと近づいた気がする。

またちょっと時間が空いた先に、同じように見かけるんだろうけど、また会釈と挨拶の再会になるんだろう。でもそれはそれで、いい事なんだと思う。

無駄遣い

社会的に成功したある人が、「買わなければよかった無駄なもの」について、幾つか例を挙げて語っていた。説明を読んで、そのどれもがそりゃ無駄使いだわと、まあまあ納得、同意できることが多かった。ただ反面、そりゃその立場になったら買うよなと。幾ら周りに止められても、自分でも薄々無駄とわかっていても、多分買うだろうなとも思えた。記事はストレートに、「買わない方がいい」的な書き方で締めていたけど、その人は本当にその意図で語ったんだろうか。本心で買わなければよかったと、後悔しているんだろうか。

 

無駄になる可能性が高いもの、金額と比べて割に合わないものは、出来るだけ避けた方がいいに決まっている。ただ、「ああ本当に無駄だった、マジで損したわ」という経験が、自分の価値観を強化する時がある。

そして、毎回買うものに満足しているという事は、既存の価値観の中で冒険をしていないという事でもあり、ひょっとしたら自分が求めているもの、その先の価値観は、もっと別のところあるのかもしれない。

高いから良いものという事じゃないのは、子供の頃からの経験上知っている。でもこの価格なら買っても良いかという、自分の中のコスパの感覚を磨き続けるには、たまに失敗しておかないとわからない気がする。

なので、たまには無駄を取りにいって失敗しておきたい。自分の性格とか置かれている状況を理解した上で、適切にバランスを取って、許容できる無駄使いをしておきたい。

 

もっと言うと、無駄だとわかっていたけど、「ああ、無駄だったね」という経験に金を払っておきたい時だってある。世の中やみんなが無駄と言うのは、こういう意味なのかと、実感できることに価値があったりする。そこの納得感を得るために払う金は、無駄じゃない。

 

適切に無駄遣いの経験を積んでおくことで、本当に手を出したら駄目なもの、失敗したら大損害になることを上手く避けたり、向き合わざるを得ない時でも、上手い敗戦処理が出来るんだと思う。

 

無駄遣いを避けることで、損な人生をおくらないようにしたい。

多様性 の世の中は、厳しい世の中なのかもしれない

多様性とか、ここ15、6年の間に初めて概念を理解した感じで、「色んな価値観に基づいた生き方を尊重しましょう」て言われても、最初はピンとこなかった。昔は変わり者以外、ほぼみんな同じ価値観の生き方だったし、その中で優劣を競ってきたように思う。その代わり、その時代の世の中の本流というか、大筋の価値観に従っていれば、その価値観の下、全体に守られていたようにも思う。

100%とは言わないけど、今は昔と比べて「多様性」という名の下、自由な価値観に基づいた生き方が認められているし、尊重もされている。法を犯さなければ、どう生きようとも、少なくとも表向きには他人に指も刺されにくい。昔はそういう世の中の流れと違う生き方をしていたら、面と向かってあれやこれや言われたし、影で色々干渉もされた。今は違う。寧ろ何か言ったり干渉すれば、そちらが強く非難されるようになった。

昔と比べて、生き方へのプレッシャーは少なくなった。凄くいいことだと思う。生き方に関して、各々の価値観で ご自由に の時代になりつつある。

 

俺が子供の頃、学校から帰ってきたら必ず母親がいておやつを出してくれた。友達が家に来たらもてなしてくれたし、逆に友達の家に行ったら、同じように友達の母親がもてなしてくれた。今は共働きが当たり前だし、こういう過ごし方は減っていそう。俺みたいなだらしない人間が、一応大は学に行けたのも、当時の高校生は、なんとなく大学にいっておくべきという空気があったから。それに何の疑問も感じていなかった。縁あって出逢った人と籍を入れ、世界で一番大事な存在となった我が子が生まれてくれたのも、30前後で男女は結婚するものだという価値観があったから。

束縛というレベルではないけど、目に見えない、こうすべきという全体の価値観は確実にあった。それは生き方を窮屈にさせてはいたけど、そこから得られるものも確かにあった。意識していた訳じゃないけど、俺はそれに乗ったから、幸せな選択が出来たのかもしれない。これに乗らなかった世界はどうなっていたんだろうと、たまに思う。

 

多様化を肯定する世の中になって、共通の価値観の下、周りが上手く全体の中で生きていけるよう、守ってくれる社会でもなくなった。「お互い自由に生きましょう、その代わり、自分で強く生きてね」という感じに。各々の価値観を持って自立するには、独立した生きる強さも求められている。

今の世の中、色んな価値観が認められていいねと思いはしつつ、あなたの価値観は?それに沿った生き方は?って問われても、即座に答えられる人はどれだけいるんだろう。今の若い人でも、俺が若い時に生まれていた方が、なんだかんだ幸せになれていた人がいたのかもしれない。ふとそんな事を思って、複雑な気持ちになった。

 

それでも多様性が認められ、色んな価値観の下、堂々と生きる事の出来る今が良いと信じる。生き方へのプレッシャーが下がったというのは、本当に素晴らしい。今より、もっと多様性が認められる社会にするのが、我々大人の責任。ただ多様性を求められる故、上手くいかない人も恐らく一定数いる。そんな人をフォローする事も、多様性を進めるのと同じぐらい、我々大人は忘れたらダメだと思う。