書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

寄り添う ということ

先日、自分でも信じられないぐらい、大きなミスをした。普段しないような、間抜けすぎる単純なミスが三つくらい重なってしまい、結果大幅に遅刻をしてしまった。それも自分が皆にお願いして決めた時間なのに。いい年して何やってるんだろうと、自分で自分を全否定してしまうぐらいショックも大きく、自尊心も大いに下がった。冗談で「半泣きになる」ってよく言うけど、この時は本当に半泣きになっていたかもしれない。

大遅刻確定後、この日の全てが嫌になり、我儘を承知で、その後の予定をキャンセルさせてもらおうと、参加者に詫びの連絡を入れた。みんな優しくフォローしてくれ、とてもありがたく、嬉しかった。ただ、みじめで情けない気持ちは消えなかった。そんな中、同じような優しい励ましの言葉だけど、その頭に「僕も同じことをしたことがあります」という一言を添えてくれた人がいた。

みじめで情けない自分が、救われたように感じた。しゃがみ込み、惨めさと恥ずかしさで顔を覆ってる自分の肩に、そっと手を置いてくれてるような。この時、自分は誰か傷ついた人に声を掛ける時、自分の立ち位置はそのまま、自分は立ったままで、声を掛けていたんじゃないかと気が付いた。しゃがんで顔を手で覆ってる、打ちひしがれた人に、立ったまま言葉をかけていたように思う。

上から目線なんて気持ちは勿論無いし、しゃがみこんでる人に手を差し伸べて、引き上げる優しさも良いと思う。でもその前に、先ずはしゃがみ、同じ位置について、寄り添う優しさもあってもいい。「僕も同じことがあります」という一言にそれを感じた。しゃがんで、肩に手を置いて、同じ目線に降りて伝えてますよ、という思いが伝わってきた。

その人が本当に自分と同じミスをしたのかわからない。その人の言葉のセンスかもしれないけど、それで片付けたくない。辛い時に寄り添われるありがたさを知ったし、誰かが辛い時には、今度は寄り添えるような自分でいたい。その時の一言が、「同じことをしたことがあります」かなんてわからない、相手やその時のシチュエーションで変わる。でも自分の立場で相手に声をかけるのではなく、相手の立場にあわせてしゃがみ、同じ目線で同じ景色を見て、そこで思い感じたことを伝える。これを意識していたら、今回、自分が救われたような言葉が、自然に出るんだろう。

人に寄り添うというのは、こういう事なんじゃないかと思う。

寄り添うことのできる人間になりたい。