書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

選択

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3日前は自分が主催者、昨日は一参加者として、ある経済評論家さんの私塾関係者が20人以上参加する集まりに出た。どちらも堅苦しい事言わずに、集まって話しましょうっていう会で、時節柄なんか忘年会のような感じになった。

 

思えば数年前、酔っ払った勢いで、この私塾に参加申し込みをしたのが、先ずはこの集まりに繋がるナイスな選択のはじまりで、その後、その経済評論家さんを一目生で見ようと思い、勇気を出して実際の集まりに顔を出したのが、ナイスな選択の二番目。そこでやさしい仲間に声を掛けて頂き、繋がり、今に至る。

 

至るんだけど、そこに至るに色んな「選択」があった。私塾の勉強会に行くとか、行かないから始まり、塾生の中で、頭を取って何かをやるとか、やらないかとか、塾生仲間に頼まれた事を手伝うか、手伝わないかとか。思えば数えきれないほど、選択してきた。熟考を重ねて選んだ選択もあれば、ノリや勢いで選択したのもある。その選択の結果、思いがけない素晴らしい経験もさせてもらえたし、仲良く、多くの刺激を受け合える友人も沢山出来た。ギリギリ覚えもらえてるかの感じで、その尊敬する経済評論家さんから、名前で呼んでもらえるようにもなった。

 

勿論、良い事ばかりでもなく、選択を間違ったのかと思う様なこともあった。単純に不愉快な行為を受けた事もあったし、要らぬ争いごとに巻き込まれた事もあったし、利用させられそうなこともあった。でもそこに至る選択を繰り返してきたのも自分なので、しょうがない。良かれと思った選択がそうじゃなかったという事もあるという事で、受け入れないと。

 

仕事で成功する、試験に受かる、ある人と結ばれる等々、こういうのは反対の結果が出た時に、選択を間違ったと思いがちだけど、そうは言い切れないのではと思う。この仕事で成功しなかったから、違う仕事で成功し、違う幸せを掴む事もある。試験に落ち、当初望まない学校に入ったとしても、そこで人生を変える気づきや出会いが待っているかもしれない。結ばれなかったとしても、最高の友人になれたらとても素敵な事だと思う。

 

その選択が正しかったのか、そうじゃなかったのかなんて、死ぬ間際になって、ぼんやりわかるかもしれないぐらいで、正確には死んでもわからない。並行して、違う選択をした場合の人生を追体験なんて出来ないし、自分の選んだ一本の道の選択の絶対評価でしか判断が付かない。

だから、ああしていればよかったとか、こうしなければよかったとか、後になってその時の選択を悔やむ事は、無駄な事なんだと思う。そう都合よく割り切れないのが人間なのは、百も承知で。

 

人間、誰でも日々何事も選択をしている。勤め人であったり、家族がいたりして、選択の余地がないことだってあるんだけど、それだって奴隷でもない限り、拒否すればいい。強制された事をしなければ命が脅かされる状態でない限り、何事も自分が選択している。全て自分が選択して、その結果が今。

 

大事なのは、日々の選択を後悔の無いよう真剣にすること。

そして、その選択の結果を受け入れ肯定する事。

望まない結果だとしても、その後の選択の積み重ねの先、最高で一番の幸せが待っていると信じる事。

 

今回の集まりの場に自分がいる事も、より良いと思う「選択」を今まで繰り返してきたから。この集まりの場でも、思わぬ新しい繋がりが出来たし、昨日の昼までは会えるとは思えなかった仲間にも会えたし、言葉も交わせた。そして、そこで交わした言葉や繋がりも、自分がその行動を選択した結果であり、それが後々の何か大きな動きに繋がると信じたい、それが幸せな動きに繋がる選択だったと信じたい。

 

なんかみんなで飲んでる最中、楽しくて楽しくて仕方が無い中、ぼーっとそんな事を思っていたし、みんなで帰って、解散していって、最後に一人になった時、この考えが頭の中によぎった。

 

今迄、良い選択をしてきたんだなと思う。