自分が見ているものと、他人が見ているものが同じなのかどうかわかんないって、子供の頃からずっと思ってた。例えば自分が見て赤と思う色があって、他の人も記号としての言葉で赤というけれど、でもその赤って本当に「自分と同じもの」が見えてるんだろうか。
その他の人が見て発する記号の「赤」は、自分の見ている「青」や「緑」みたいな感じなのかもしれない。でもそれを確認出来ないし、多分ずっと証明できない。自分の体にその他の誰かが乗り移るか、脳と感覚器の眼を共有して初めて同じかどうかわかる。
こんな事考えるの自分だけじゃないのかとその時は思ってたけど、大人になってから、哲学的な問題として割とメジャーな話なんだと知った。
これって言葉もそうなんだなと思うし、それを意識すると、怖くてたまにしゃべれなくなる。
料理の味を聞かれて、「美味しい」と答えても、そもそも美味しいって表現している感覚は、他の人と同じなんだろうか。他の人は、俺の言う美味しいという感情を表現する時、体の中で爆発するような感覚があるのかもしれない、脳天に稲妻が落ちるような感覚があるのも知れない、俺だけがないだけで。俺は物を食べて、味わった際、何とも言えない快感と言っていいのか、何か幸せを感じる感覚を感じた時、「美味しい」というけど、皆はどうなんだろうか。
暖かいとか、寒いとか、温度のような数値で表せることもあるけど、それだってどう感じるのはあくまでも主観だから、結局無意味。全部全部、ぜーんぶ、こうなる。
相手に伝わるか曖昧な形で発信せざるを得ない、相手からも曖昧な形でキャッチせざるを得ない、曖昧な形で自分の中に取り込まざるを得ない、で、また曖昧な形で発信せざるを得ない。
言葉のやり取りで、自分の思う感情や意志を、完全に伝える事は出来ない。結局人間孤独なんだな~って何時も思う。
それでも言葉のやり取りで、互いにずれを修正し合って、伝わる事を80%を90%に、90%を95%に、95%を99%には出来るかもしれない。
と、同時に、10%のずれ、5%のずれ、4%のずれを許し合いたい。そしてそれを許せるから、人にやさしくなれるんだとも思ってる。
だから言葉をやり取りする事って、骨が折れるし、大きく間違ったら変な事にもなるし、ハッキリ言って疲れるけど、俺にとっては大切な事。
こんなこと考えるのどうかしてるのかもしれない。そしてこう考えてしまう俺は、あんまり社交的じゃないんだと思う。
それでも言葉のやり取りしかわかり合う事はできないと思うので、これからもどうか皆様お付き合いくださいませ。