書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

真理

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世の中でどう見られているか、どう解釈されているか、それに対してどういう流れなのか、客観的に見ること、理解することは大切。

 

でも自分にとって、どう見え、どう感じ、どう動こうと考えたのか。世の中のそれと、俺のそれはまた別の話。

 

俺の判断が俺の全て。

俺の中で正しい事が、俺の世界では正しい。

世の中で正しいことが、俺の中で正しいとは限らない。

俺の正しいことが、世の中で正しいとも限らない。

 

俺の正しいを堂々と追及していきたい。

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ここ1週間、とても忙しいながらも、楽しく、やりがいもあり、頼られた日々をおくった。満足してたつもりだけど、充実していたつもりだけど、何処か違和感を感じていて、昨日1日家に籠って、うっすら見えてきた。

 
自分にとって一番大切な価値観は、主体性を発揮できるかできないかということ。主体性を発揮できるかということは、自由な状態なのかどうかということ。どれだけ楽しくても、どれだけやりがいがあっても、どれだけ必要とされても、自分にとって他人からの「枠」が大きく意識される下にいるのは、やっぱり疲れてしまう。どれだけ美味しいご馳走でも、誰かが目の前に置いて、それをただ単に食べるよりかは、自分で迷いに迷って、大して美味しくもないかけうどんを食べる方が、自分にとって価値がある。
 
ゆっくり、ゆっくりだけど、そしてこの年になってようやくだけど、何が本当に大事で、何が本当に大事じゃないかがわかってきたような気がする。わかるというのは、その方向に舵を切る事も含めて、わかってきたような気がする。
 
満足できる主体性を発揮するために、先ずは今ある枠をもっと大きくしたいし、最終的には枠そのものをなくしたい。
そこに至るか至らないかはさておき、そこを目指すのが、自分にとって心地よい苦労をするという事なんだと思う。

頭の中のテトリス

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仕事でも遊びでもなんでもいいんだけど、アクションとアクションの間って、頭の中で「テトリス」を隙間なく組み直している。テトリスの各パーツは、自分や相手がアクションで取った発言とか、反応、しぐさや態度。それをもう一回、頭の中で組み直してる。

 

アクションが上手くいかなかった時、テトリスの組み合わせが隙間だらけだった時は必死で組み直すし、上手くいった、テトリスが奇麗にハマったと思った時は、確認の意味、安心する意味で、頭の中で同じように組みあげてる。

 

端からは、多分ぼーっとしてるように見えてるんだろうけど、そのぼーっとの中で、テトリスのパーツを必死で動かし、回している。隙間なく詰めていって、それでも隙間が出来るところは成長への課題なのか、はたまた運とかどーしようもない事なのか考えてる。

 

そうやって、頭の中で必死でやっていた事の振り返りをしている。アクションが次に続くなら、次の機会どう動くのか課題を出すし、完結したとしても、似たアクションに対して、より良くするための対策を練ってる。稀に満額回答なアクションが出来たとしたら、自分を認め肯定してる。

 

やらないと気持ち悪いし、そのアクションが、自分の中で完結しない。テトリスを終えておかないと、そのアクションをやった価値が下がる。前のアクションが無かったかのような感じになる。

 

最初のアクションで隙間なく詰めれたらとも思うけど、頭の中のテトリスが出来なくなるのはちょっと寂しい。

目標について

 

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目標ってあんまりズバッと決めない方がいいような気がする。

もちろん何かを成し遂げるため、何か希望のものを掴むために目標を立てるのは当たり前だし、それを目指すべきではある。そしてそれはより具体的な方がわかりやすく、モチベーションも高めやすいと思う。でもだからといって、あまり固まった目標を作らない方がいいんじゃないかと、出来るだけ緩い方が良いんじゃないかと、思うようになってきた。

時が経ち、成長するに連れて、思考の結果や希望している事は変わっていく。変わったことを自覚してる事もあれば、無意識で変わってしまっている事もある。具体的に立てた目標は、立てた時には嘘偽りない願いで間違い無いんだろうけど、それから何年も経っていたら、そこから変わっていても不思議じゃない。そんな時に、あまりにも立てた目標が固まってしまっていると、それに縛られてしまう。

目標を具体的に立てる事って、例えば地図を広げて「ここに行く!」と決めてスタートするような物で、そういう目標の立て方じゃなくて、取り敢えず目的地がありそうだなと思う、「西に向かう」とか、緩め緩めの目標の立て方に変えたいと思う。

具体的に決めると夢を叶えやすかったり、手に入れやすかったりはするだろう、何より、ハッキリ達成したと実感しやすい。でも融通が利かないし、上に上げたように、そもそも叶う瞬間、もう自分にとってはその夢が変ってるかもしれない。それなら「西へ向かう」ぐらい、緩めでアバウトな方が良い。緩めの目標の方が、今と未来を考えて修正しやすい。個人的に、「西へ向かう」は「とりあえず、今よりより幸せを感じる方に」になりそう。

人生で立てる全ての目標は「幸せになる」に収斂される筈で、その幸せになる為の「目標」は、おそらく人生のステージで変わっていく。だから、目標なんて緩いものでいい。

緩い目標で生きやすくなりたい。

言葉のチューニング

 

 

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人と人はTalkの話も、Writeの書きも「言葉」でしかわかりあえない。気持ちを伝えるには、言葉にして伝えるしか無い。

 

握手したり、ハグしたり、時には無視をしてでも気持ちを伝える事があるけど、それは前後にちゃんと言葉を使った、意思の疎通があった上での話。だからやっぱり言葉でしかわかりあえない。 言葉をどう上手く伝えるかが、人生の生きやすさを変える。

 

その時の状況や感情をどの言葉に乗せるか。どの言葉をチョイスするのか。分母としての語彙力と、相手と状況に合わせて、どの言葉を選ぶのかと言うセンスの力が必要。

 

人によって、その言葉のニュアンスや重みは違う。生まれも育ちも違うから、意味が微妙に違う。なにも弄らず、100%両者で同じ意味の言葉は無い。「おもしろい」一つとっても、此方の思う「おもしろい」とあちらの持つ「おもしろい」の意味合いは違う。その些細な違いが、案外後で大きなズレになる事がある。だから相手と同じ意味合いを持つよう、自分の言葉を相手に合わせてチューニングして投げないといけない。

 

ちょうどいい塩梅のチューニングが出来るセンスと、チューニングした結果、お互いぴったり合う、共通の言葉をどれだけ多く持てるかが、気持ちを伝えるにあたって勝負になる。

 

会話の最中、キーになりそうな言葉を見つけて、その言葉が同じ意味合いになるよう、上手くごまかしながらチューニングして探っていく。チューニングした結果、幾つかの言葉がお互いの「共通語」になっていって、この言葉の意味や解釈がこうなら、この言葉の意味や解釈もこうかなと想像が付いてくるし、その精度が段々上がっていく。

 

そうやって仲良くなっていって、深い話が出来るようになる。年を取って良かったと思う事の一つは、こういうチューニングする事に対する、ぼやかしとごまかしが、若い時と比べて多少上手くなったと思えること。中にはチューニングが中々合わなかったり、チューニングの前、そもそもその言葉の意味合いがあまりにも違い過ぎて、煩わしく感じる時もあるけど、その人と合う合わないって、こういう事なのかと思う。

 

あの人と俺の間の「おもしろい」は、既に「共通語」になってるのか、まだまだチューニングの最中にあるのか、それを知るのが課題。

本とのお別れ

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本の断捨離をした。

 

年に1,2回、本の整理をして、その整理は処分することも含めた整理だったけど、今回は断捨離と言い切れるほど、バッサリ処分した。先週で300冊位、今回で100冊位処分した。残った本は大体250冊位、丁度本棚1つ分になった。

 

今迄本が溢れたら本棚を買い足してきたし、それも無理なら本棚に収めるだけ収めて、はみ出す分を処分してたけど、もうそれもなんか違うなと思って、本当に残したい本、本当に後で読み返す本以外はきれいさっぱり処分した。もう直感に近い感じで、ばっさばっさと本棚からリストラ。3,000円ぐらいした本もあれば、600円ぐらいの新書も、分け隔てなくリストラ。リストラされた本は凡そ1,2週間書斎の片隅で放置。その後改めて眺めて、脳内ビブリオバトルで敗者復活のチャンスを与えるも、サルベージされたのは3冊位。だから、最初の感覚は案外あってたんだろう。

 

本棚自体もこれを機に断捨離で、1つだけになった。寂しく感じるかなと思ったけど、残った1つの本棚を眺めると、自分に取っての精鋭中の精鋭が背表紙をこちらに向けて、「何時でも頼ってこい」って感じで鎮座ましましており、寂しさどころか安心と勇気がもらえる。

 

不思議とこの250冊位がちょうど把握できるというか、安心できるというか。何時でも手に取れるような数だし、再読できそうな数だし、あの本の中には大体こういう事が書かれてる、その結果こんな影響を受けたと、意識できる。

 

今までも、とびきりお気に入りの本は本棚にあったけど、その他の普通のお気に入りの本だらけで、それがノイズとなって埋もれていた。お気に入りの本を処分して、とびきりお気に入りの本が生きてきた感じ。250冊の中には、古本屋で買った300円の新書もあれば、3,000円のハードカバーも、俺にとっては平等で、隣り合って並んでる。

 

残す本はまだそこから学びが得られる。つまりは読み切れていないという事で、手元に置いておきたいだけ。今はとびきりお気に入りでも、何時か処分する時が来るかもしれない。

 

本を処分するという行為を乗り越えないと、その本にある、知識、知見、学び、感動を得られないんじゃないか。

本とは何時でも別れる気でいないと、本に対して本気になれないんじゃないかと思える。

 

だから処分した本、別れた本にこそ、残した本以上に感謝したい。

そしてこれからも、沢山の本と別れていこうと思う。

30年後の30分

 

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きっかけは本当にふとしたことで、梅田であった用事と用事の間、時間が空いたから散歩がてら東通り商店街をフラフラしていたら、偶然すごく有名なゲームセンターを見つけたことから。あーここにあったのかと、そのままフラフラ入った事から。

 

昔、ゲームにハマっていたゲーマーなので、そのお店の存在は知っていたけど、実際に入ったのは初めて。ゲームなんてここ20年近くやっていないので、お店に置いてある最新型のゲームはさっぱり分からなかったけど、レトロゲームのコーナーがあり、その中にそのゲームはあった。自分が中学生の時に熱中したゲーム、30年以上前にやり込んだゲームがそこにはあった。

 

クリアするまで凡そ30分ぐらい。ちょうどそれ位の時間があった事もあり、プレイ料金の50円を入れてそのゲームをやってみる。やってみると、この手の話でよくあるのが、「その当時を思い出して懐かしい」という話だけど、そんな気持ちはなく、単純にただただ面白く、楽しかった。やっていくうちに、少しずつそのゲームのことを思い出してきて、最初どこか引いた感じ、暇つぶしで始めたのに、中学生の頃のように、ハマっていった。結局最後の最後、この時は「世界を救えなかった」けど、30年以上のギャップがある割には、そこそこ進めて満足だった。

 

次の予定までいい暇つぶしが出来たと店を出て、次の用事をこなして家に帰る。夜は、その日にあった最初の用事と、次の用事の余韻に浸った。どちらも大切な用事だったので、楽しく過ごせてよかったと、上手くいってよかったと余韻に浸った。

でも、どうにもそのただの時間潰しで入ったゲームセンターで、たまたま見つけたそのゲームの記憶が、強く強く自分の頭の中で反射しはじめてきた。二つの用事はいい想い出になり、楽しかったという記憶に格納されていく。けれどそのゲームのことは、1日、2日と経っても記憶に格納されず、そういえばあの時の謎解きはどうだったのかとか、30年前には出たキャラクターが見えなかったのは、何かしくじったかなとか、どんどんどんどんそのゲームのことが気になり始めた。

 

暇な時間、ネットを検索すると、YouTubeを検索すると、すごい数の情報が出てきて、凄い数の動画が出てきた。気が付いたら飽きずにずっとその情報と動画を追っていた。当然30年前のことを思い出しだけど、それは30年前の学生時代がどうのこうのではなく、30年前、そのゲームをプレイした自分のことだけが思い出されてきた。ああいうテクニックがあったなとか、ああいう隠し通路があったなとか、ああいう隠れキャラが出たかなとか、そういうのが全部全部思い出されてきて、YouTubeを見る度に、自分がプレーしてる気分になっていった。暇つぶしに見てたYouTubeが、自分から時間を作って見るようになった。

 

たかだかゲーム、だけどされどゲームで、30年以上前の自分にとって、ゲームというのはかなり自分の中で大きな割合を占めていた。今は1%も無いけど、なぜかあの時ふらっと入ったゲームセンターで、ふらっとやってしまった事によって、今だけ、自分の中で30年前の自分が甦ったかのように、心を占める割合が増えていった。もうこうなるとどうにも我慢ができなくなり、わざわざそのゲームをやりに梅田まで行った。もう45の男が、30年前の中学生の時にハマったゲームをやりに、片道30分以上かけて梅田のゲームセンターにそのゲームをやるためだけに行った。

 

プレイし始めると、直ぐに30年前に戻った感覚が下りてきた。ネットで見た、YouTubeで見た攻略も思い出したけど、それ以上に30年前の自分で得たテクニックと知識が舞い降りてきた。自分で自分を見る事は出来ないけど、周りから見たら、くそダサい学生服でゲーセンに通っている、ニキビ面した中学生がゲームの前に座っているように見えたんじゃないか。

この時、30年前のベストなテクニックと、このゲームのほぼ全ての知識を蘇らせた、理想的なプレイで「世界を救った」。今迄何百と世界を救ってきたけど、約30年ぶりに世界を救った「回数」が一つ増えた。30年前の自分が下りてきているので、当時と同じように、楽しみ笑った。この時の充実感といったらなかった。

 

1週間近く経った後、どうしても、もう一度その感触を味わいたく、わざわざ仕事帰りにまた梅田に行った、また100円玉を50円玉に両替してゲームに挑んだ。でも、あの時の高揚感は戻ってこない。30年前の感触はもちろん、1週間前に感じた「30年前に戻った感触」すら戻ってこない。ダラダラとプレイをして、世界を救った数が1週間ぶりに1つ増えただけ。楽しいことは楽しかった、でもあの30年前の高揚感は戻ってこなかった。

 

あの日の1日、たった30分だけ、30年前の中学生時代に戻れた。

 

人生は一方通行で、現在から未来に向かうのみ。

過去を振り返り、過去の経験を元に、一方通行の道を進むのみ。

過去に戻ることなんてできない。

 

でもあの30分は間違いなく過去に戻った。

 

またこんな経験ができるのかどうかなんてわからない。

でも、もしまたあるのなら、何年後か何十年後かわからないけど、あるのなら、何百回と世界を救って平和をもたらした数が、また一つ増えることを、楽しみにしている。