書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

メメント・モリ

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本棚に唯一置いてる写真集は、景色や芸術品のそれでも無く、ましてや女優さんのでもない。生と死に関するもの。忘れたころに読み返してる。

生と死とは何ぞや?って、みんな中学生ぐらいの時には考えるっていう。考えると、怖くて眠れなくなったとかもよく聞く。でも大概みんなある程度のとこでそんなの考えなくなるし、多分それが正解だと思うんだけど、ホンの少しだけそこに興味がまだ残ってて、ちょこちょこその手の本を読んだり、極々たまに考え込んでしまう。色んな考え方、捉え方を知ったし、自分の生き方とかポリシー形成に確実にそれらが役にも立った。でもどれだけ本を読んでも結論なんか出ないし、出たら出たで宗教家デビューできる。まあでも、教祖様で金儲けまくりでウハウハと思ってしまう時点で、まともな宗教家にはなれそうにないけど。

 

高校生の時、図書館で「メメント・モリ」と言う写真集を偶然見てしまって、結構な衝撃を受けた。メメント・モリとは「死を想え」というラテン語の警句。その写真集も、「死と生」がテーマで、人間も動物も植物も死んだらおしまい、でもそれはそれでいろんな意味がある、そこからまた命がはじまるというもの。生々しく、幻想的な写真と、そこに添えられている詩に、息が出来なくなるぐらい引き寄せられた。ガンジス川で荼毘に付される亡骸や、動物に食べられる亡骸もぼやかさずそのまま、その写真についてる詩が「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」。今でもよく覚えてる。

 

その時はこの本のテーマに相対する勇気が無く、無理に手元においても、おかしくなりそうで怖くて手に入れなかった。後に大人になり、それが藤原新也という有名な写真家の作品なのを知り、たまたま10年ぐらい前にこの本が新装版で出たタイミングで手に入れて、それ以来偶に読み返してる。

 

特に好きなのが、

 

「死は生のアリバイ」

 

「死というものはなしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最期のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選び取るのです。だから、生きてるあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。」

 

「死とは死を賭して周りの者を導く人生最後の授業」

 

の3つ。

 

あと、最後の結びに、「この本は、汚れれば汚れるほど良い。聖書やコーランのようにいつでもどこでも何年も暇があれば汚れてメロメロになるまで読んで欲しい。そしてその結果、写真や詩を、いくつ感じ、幾つ解釈し、幾つ乗り越えるだろうか。」とあるのも気に入ってる。俺のはまだピカピカなので、もっと読まないとと、毎回思う。

 

身近な人の死を前にして、人は死を知る。俺も初めての身近な人の死は、父方の祖母で、次に母方の祖母、母方の祖父。何の予兆も無く急にだったり、あまりにも脆くあっけなかったり、徐々に予想通り弱っていって予定通りの大往生も。炬燵の中だったり、施設のトイレだったり、家の布団の中で眠るように逝かれたり。

 

訪れるタイミングにあたっては、色々すぎて、何か特別な知らせみたいなのがあるとは思えない、あっても気が付かない。普段は隠れているだけで、本当はそれだけ日常に死というのはあって、ふとした瞬間圧倒的なインパクトで目の前に出てくるだけ。

 

皆、死に方や死んだ場所は違うけれど、全員違う事を教えてくれた。人生の先達が最後に生とは何かを死を通して教えてくれる。

 

人の死は生とは何かを対照的に浮かび上がらせてくれる。死は与えられるのではなく、自分で行使するものなんだと思う。生が生足らしめるのは、死があるから。死も込みで生だから、死には立派な意味があると思う。

 

なんと死とは生きてる事を輝かせることなんだろう。