書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

ムクゲの花が好き

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不愉快な事をされたり、言われた時って、「された行為」と「行った人」が対になって記憶に刻まれてて、文句を言ったり反論するにも必要以上に力が入ったり、何時までも許せなかったり。

 

でもその「された行為」と「行った人」を分けて考えたら随分楽になった。

 

同じ不愉快に思う事でも、信用していた人にされるのと、どーでもいい嫌いな人にされるのでは、受ける印象も違う。身内にされるのと、赤の他人にされるのもまた違う。先輩後輩でも、性別でも、年齢でも違う。対で考えてしまうと、その行為や言葉の意味が歪められたり、変数みたいのが掛けられてしまう。

 

結果

 「お前になんか言われたないわ」とか

「何も知らないくせに偉そうに」とか

「どうして俺の事認めてくれないんだ」etc...

とか、ありがちだった。

 

言われた事、その指摘に大きなヒントがあったりするのに、そこに至る前で止まってしまったり、逆に1秒でも悩むのがアホらしい、ただの中傷が重荷になって、後々まで考え込んでしまったりで、メンタルも時間も勿体無いなって状況が多かったような気がする。

 

でも分けて考えれたら、純粋にそのされた事、言われた事の意味を、正面切って考えれるようになった。

 

結果、「まー別に俺は該当しないし、俺には意味のない事だし無視だな」とか、逆に「これはこれで正論だから受け入れよう」とか、「悪意全開、ほっとくと後々面倒だからちゃんと反論しよう」とか、割と意味のある、先を見た判断を出来るようになった。つもり。

 

受け入れるべきことは受け入れ、違う事は違うと伝える。もしそれでも届かないような相手は「輝かしい人生を無駄にするミジンコ」だと思うようにしとこう、そうしよう。

 

人に変えられるんじゃなくて、自分で変わる人生を歩みたいですね。