書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

「うちの子」問題について

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昔、「うちの子です」といって愛犬や愛猫を紹介されるのに違和感があった。「うちの子」という以上、「家族」として扱ってるって事だし。それがなんか許せなかった。

 

別に悪気があるわけでは無いし、何も此方が傷つく事でもないのに、心の中で「いやいや、犬でしょ」って思ってた。犬でしょっていう事で、「人間とは違いますよね?」って当たり前のことを言って区別したがってた。今目の前で話をしている人と、俺の2人でこの空間を共有してますよねって、それは3人ではないでしょって。そこまで酷い人間ではないと信じてるけど、こう書くと犬や猫を当時の俺は「物」に近い形で見ていたのかもしれない。なんで目くじら立てて、喧嘩腰で、人間と他の生き物を必要以上に区別したがってたのか、自分でも良くわからない。勿論言葉には出さなかったけど。

 

ここ4,5年でそういう気持ちが無くなって、犬や猫を「家族」と思う人の気持ちが解って来たような気がする。犬や猫がいるから早く帰る人とか、旅行に行けない人が、ちょっと不思議というか価値観が解らなかったけど、自分にとって子供置いて旅行行けるか?お腹空かせてる子供ほっておいて夜中まで飲み歩くか?って言われたらしない、それと同じことなんだろうと腹落ちした。書くと当たり前すぎるんだけど、しっくり腹落ちした。心の中でも「ああ、かわいいお子さんですね」って本心で言えるようになってきた。

 

当時は人としてどうかなと思ってたから誰にも言わなかったけど、もう違うという事で。ペット好きなお友達の皆様、軽蔑しないでくださいませ。今は違いますから。

 

何が良いって犬や猫は「なんとなく」分かり合えそうなのがいい。言ってる事わかってくれてるんだろうけど、確実に伝わってるわけじゃないのがいい。そういう永遠に言葉で通じ合えない関係なのがいい。人間同士も100%は通じ合えないけど、犬猫の通じ合えない「なんとなく」の塩梅が丁度良いように思う。昔、犬猫の言葉を翻訳するっていうおもちゃがあったけど、アレは愚の骨頂だと個人的には思う。あの「何となく」が良いのに。

 

多分若い時は、この「なんとなく」を自分も人も動物も許せなかったのかなと思う。その辺が許せるようになってきて受け入れられるようになったんだと思う。

 

こっちの意志も「何となく」伝わって、向こうの意志も「なんとなく」わかってるよと、「なんとなく」伝える事が出来る動物と一緒に過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

因みに、飼うなら柴犬が良いなと。あの凛々しい目つきに憧れる。疲れて帰ってきた金曜日にはハイボールを黙って作ってくれて、「お前は頑張ってるよ」って言ってもらいたい。仕事で自信を無くした時、またがらせてくれて、ナポレオンの肖像画みたいな荒ぶるポーズ撮ってfacebookで自慢したい。そんな柴犬と暮らしてみたい。