書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

OSの先をどうするか

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文章を書くという事は、自分が考えた事や問いを他の人に投げて、「理解」してもらうためです。ですよね?

 

このデジタルな世の中、AIが凄く進んでいて、シンギュラリティすらそう遠くない内に現実になるんじゃないかって中、随分まだまだアナログな感じがします。砂に指で書いてたのが筆になり、鉛筆になって、それがボールペンからPCのキー、スマホのフリックに、音声入力になっても、何らかの物理的な形にいったん変換して、言葉にしなきゃならない。アナログでデジタルじゃない、曖昧なアナログだから、書いててどれだけ自分の馬鹿な考えが、読んでくれてる方に伝わってるのか不安になります。別にブログだけでなく、どっかの書き込みでもそうだし、直接しゃべっていてもそう。頭に電極刺す時代はこの問題を乗り越えてるかもしれないけど、まだ先です。

 

私の母語は日本語だし、頭の中は日本語で物事を考えてます。私の文章を見てもらう方も、母語が日本語では無くても、日本語を理解してくれる方を想定してます。日本語で書いてて日本語で理解するって、最低限「OS」が先ずは同じという事なんです。OSが同じだから、別に上手に書かなくても、何となく70%ぐらいは言いたい事伝わるのかな、あくまでも個人的にそう思うだけですけど。で、日本語と言う共通OSの先は各々のカスタマイズされた世界が広がってるわけです。その人なりの人生の経験や学習した感覚がある、それをベースに言葉を受け取り、頭の中で展開再現する。

 

私が外出て風が強いなって感じたら、「外は風が強かった」って書きます。風が強かったって「強い」ってどれぐらい?「家の外は風が飛ばされそうなほど強かった」って書いても「飛ばされそうな」ってどれぐらい?になる。全部主観的です、主観的は個々の観測に基づくものだから、私と他の方は100%同じものを頭の中で再現できない訳です。やっぱり電極指さないと延々と続く。

 

頭の中と頭の中を繋ぐ、翻訳するものは言葉しかない。アナログでノイズにまみれたり、何か欠けていたりする。だから人とのやり取りの手段としての言葉は、どこかで妥協しなきゃならない。もどかしさが凄いわけです。それでも言葉で紡いでいかないとしょうがないんですが。

 

ありがたい話なんですが、私の落書きブログは更新すると約70人の方がからかいに来てくれてるようなのです。これ読んでるあなたもその一人、ばれてまっせ。ならその70人全員受け取るものが違う訳ですよね、OSの先が違うわけだから。なんかそれがもどかしいというか、怖いというか残念というか。目の前にいて反応見て、追加とか訂正とかできたらちょっとはマシだけど、webだからそんな訳にはいかない。精々facebookに反応を書いてもらえて、それに返事を書かせて頂けるだけ。凄く嬉しいけどそれぐらいしか出来ない。

 

役に立つことなんて0%、何も書いてないけど、思ったことは出来るだけ100%届くようにしたいなと思ってるんです。馬鹿な事書いてるなでもいいんです、本当に馬鹿なこと書いてるんだから。でもその馬鹿な事が「私の考えてる馬鹿な事」と、あなたが受け取ってくれて「頭に再現された馬鹿な事」が限りなく同じにしたいんです。100%は無理かもしれないけど、今が70%なら80%、90%、91・92・93・・・・って99%にしていきたい。

 

もっともっと言葉を勉強しないといけないなと痛感するし、言葉使いにも注意しないといけない。今この思いを伝えるのは、この人にはどんな言葉でどんな間で、どんなペースで伝えないといけないのか。

 

文章って難しいです。