書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

目標について

 

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目標ってあんまりズバッと決めない方がいいような気がする。

もちろん何かを成し遂げるため、何か希望のものを掴むために目標を立てるのは当たり前だし、それを目指すべきではある。そしてそれはより具体的な方がわかりやすく、モチベーションも高めやすいと思う。でもだからといって、あまり固まった目標を作らない方がいいんじゃないかと、出来るだけ緩い方が良いんじゃないかと、思うようになってきた。

時が経ち、成長するに連れて、思考の結果や希望している事は変わっていく。変わったことを自覚してる事もあれば、無意識で変わってしまっている事もある。具体的に立てた目標は、立てた時には嘘偽りない願いで間違い無いんだろうけど、それから何年も経っていたら、そこから変わっていても不思議じゃない。そんな時に、あまりにも立てた目標が固まってしまっていると、それに縛られてしまう。

目標を具体的に立てる事って、例えば地図を広げて「ここに行く!」と決めてスタートするような物で、そういう目標の立て方じゃなくて、取り敢えず目的地がありそうだなと思う、「西に向かう」とか、緩め緩めの目標の立て方に変えたいと思う。

具体的に決めると夢を叶えやすかったり、手に入れやすかったりはするだろう、何より、ハッキリ達成したと実感しやすい。でも融通が利かないし、上に上げたように、そもそも叶う瞬間、もう自分にとってはその夢が変ってるかもしれない。それなら「西へ向かう」ぐらい、緩めでアバウトな方が良い。緩めの目標の方が、今と未来を考えて修正しやすい。個人的に、「西へ向かう」は「とりあえず、今よりより幸せを感じる方に」になりそう。

人生で立てる全ての目標は「幸せになる」に収斂される筈で、その幸せになる為の「目標」は、おそらく人生のステージで変わっていく。だから、目標なんて緩いものでいい。

緩い目標で生きやすくなりたい。

言葉のチューニング

 

 

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人と人はTalkの話も、Writeの書きも「言葉」でしかわかりあえない。気持ちを伝えるには、言葉にして伝えるしか無い。

 

握手したり、ハグしたり、時には無視をしてでも気持ちを伝える事があるけど、それは前後にちゃんと言葉を使った、意思の疎通があった上での話。だからやっぱり言葉でしかわかりあえない。 言葉をどう上手く伝えるかが、人生の生きやすさを変える。

 

その時の状況や感情をどの言葉に乗せるか。どの言葉をチョイスするのか。分母としての語彙力と、相手と状況に合わせて、どの言葉を選ぶのかと言うセンスの力が必要。

 

人によって、その言葉のニュアンスや重みは違う。生まれも育ちも違うから、意味が微妙に違う。なにも弄らず、100%両者で同じ意味の言葉は無い。「おもしろい」一つとっても、此方の思う「おもしろい」とあちらの持つ「おもしろい」の意味合いは違う。その些細な違いが、案外後で大きなズレになる事がある。だから相手と同じ意味合いを持つよう、自分の言葉を相手に合わせてチューニングして投げないといけない。

 

ちょうどいい塩梅のチューニングが出来るセンスと、チューニングした結果、お互いぴったり合う、共通の言葉をどれだけ多く持てるかが、気持ちを伝えるにあたって勝負になる。

 

会話の最中、キーになりそうな言葉を見つけて、その言葉が同じ意味合いになるよう、上手くごまかしながらチューニングして探っていく。チューニングした結果、幾つかの言葉がお互いの「共通語」になっていって、この言葉の意味や解釈がこうなら、この言葉の意味や解釈もこうかなと想像が付いてくるし、その精度が段々上がっていく。

 

そうやって仲良くなっていって、深い話が出来るようになる。年を取って良かったと思う事の一つは、こういうチューニングする事に対する、ぼやかしとごまかしが、若い時と比べて多少上手くなったと思えること。中にはチューニングが中々合わなかったり、チューニングの前、そもそもその言葉の意味合いがあまりにも違い過ぎて、煩わしく感じる時もあるけど、その人と合う合わないって、こういう事なのかと思う。

 

あの人と俺の間の「おもしろい」は、既に「共通語」になってるのか、まだまだチューニングの最中にあるのか、それを知るのが課題。

本とのお別れ

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本の断捨離をした。

 

年に1,2回、本の整理をして、その整理は処分することも含めた整理だったけど、今回は断捨離と言い切れるほど、バッサリ処分した。先週で300冊位、今回で100冊位処分した。残った本は大体250冊位、丁度本棚1つ分になった。

 

今迄本が溢れたら本棚を買い足してきたし、それも無理なら本棚に収めるだけ収めて、はみ出す分を処分してたけど、もうそれもなんか違うなと思って、本当に残したい本、本当に後で読み返す本以外はきれいさっぱり処分した。もう直感に近い感じで、ばっさばっさと本棚からリストラ。3,000円ぐらいした本もあれば、600円ぐらいの新書も、分け隔てなくリストラ。リストラされた本は凡そ1,2週間書斎の片隅で放置。その後改めて眺めて、脳内ビブリオバトルで敗者復活のチャンスを与えるも、サルベージされたのは3冊位。だから、最初の感覚は案外あってたんだろう。

 

本棚自体もこれを機に断捨離で、1つだけになった。寂しく感じるかなと思ったけど、残った1つの本棚を眺めると、自分に取っての精鋭中の精鋭が背表紙をこちらに向けて、「何時でも頼ってこい」って感じで鎮座ましましており、寂しさどころか安心と勇気がもらえる。

 

不思議とこの250冊位がちょうど把握できるというか、安心できるというか。何時でも手に取れるような数だし、再読できそうな数だし、あの本の中には大体こういう事が書かれてる、その結果こんな影響を受けたと、意識できる。

 

今までも、とびきりお気に入りの本は本棚にあったけど、その他の普通のお気に入りの本だらけで、それがノイズとなって埋もれていた。お気に入りの本を処分して、とびきりお気に入りの本が生きてきた感じ。250冊の中には、古本屋で買った300円の新書もあれば、3,000円のハードカバーも、俺にとっては平等で、隣り合って並んでる。

 

残す本はまだそこから学びが得られる。つまりは読み切れていないという事で、手元に置いておきたいだけ。今はとびきりお気に入りでも、何時か処分する時が来るかもしれない。

 

本を処分するという行為を乗り越えないと、その本にある、知識、知見、学び、感動を得られないんじゃないか。

本とは何時でも別れる気でいないと、本に対して本気になれないんじゃないかと思える。

 

だから処分した本、別れた本にこそ、残した本以上に感謝したい。

そしてこれからも、沢山の本と別れていこうと思う。

30年後の30分

 

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きっかけは本当にふとしたことで、梅田であった用事と用事の間、時間が空いたから散歩がてら東通り商店街をフラフラしていたら、偶然すごく有名なゲームセンターを見つけたことから。あーここにあったのかと、そのままフラフラ入った事から。

 

昔、ゲームにハマっていたゲーマーなので、そのお店の存在は知っていたけど、実際に入ったのは初めて。ゲームなんてここ20年近くやっていないので、お店に置いてある最新型のゲームはさっぱり分からなかったけど、レトロゲームのコーナーがあり、その中にそのゲームはあった。自分が中学生の時に熱中したゲーム、30年以上前にやり込んだゲームがそこにはあった。

 

クリアするまで凡そ30分ぐらい。ちょうどそれ位の時間があった事もあり、プレイ料金の50円を入れてそのゲームをやってみる。やってみると、この手の話でよくあるのが、「その当時を思い出して懐かしい」という話だけど、そんな気持ちはなく、単純にただただ面白く、楽しかった。やっていくうちに、少しずつそのゲームのことを思い出してきて、最初どこか引いた感じ、暇つぶしで始めたのに、中学生の頃のように、ハマっていった。結局最後の最後、この時は「世界を救えなかった」けど、30年以上のギャップがある割には、そこそこ進めて満足だった。

 

次の予定までいい暇つぶしが出来たと店を出て、次の用事をこなして家に帰る。夜は、その日にあった最初の用事と、次の用事の余韻に浸った。どちらも大切な用事だったので、楽しく過ごせてよかったと、上手くいってよかったと余韻に浸った。

でも、どうにもそのただの時間潰しで入ったゲームセンターで、たまたま見つけたそのゲームの記憶が、強く強く自分の頭の中で反射しはじめてきた。二つの用事はいい想い出になり、楽しかったという記憶に格納されていく。けれどそのゲームのことは、1日、2日と経っても記憶に格納されず、そういえばあの時の謎解きはどうだったのかとか、30年前には出たキャラクターが見えなかったのは、何かしくじったかなとか、どんどんどんどんそのゲームのことが気になり始めた。

 

暇な時間、ネットを検索すると、YouTubeを検索すると、すごい数の情報が出てきて、凄い数の動画が出てきた。気が付いたら飽きずにずっとその情報と動画を追っていた。当然30年前のことを思い出しだけど、それは30年前の学生時代がどうのこうのではなく、30年前、そのゲームをプレイした自分のことだけが思い出されてきた。ああいうテクニックがあったなとか、ああいう隠し通路があったなとか、ああいう隠れキャラが出たかなとか、そういうのが全部全部思い出されてきて、YouTubeを見る度に、自分がプレーしてる気分になっていった。暇つぶしに見てたYouTubeが、自分から時間を作って見るようになった。

 

たかだかゲーム、だけどされどゲームで、30年以上前の自分にとって、ゲームというのはかなり自分の中で大きな割合を占めていた。今は1%も無いけど、なぜかあの時ふらっと入ったゲームセンターで、ふらっとやってしまった事によって、今だけ、自分の中で30年前の自分が甦ったかのように、心を占める割合が増えていった。もうこうなるとどうにも我慢ができなくなり、わざわざそのゲームをやりに梅田まで行った。もう45の男が、30年前の中学生の時にハマったゲームをやりに、片道30分以上かけて梅田のゲームセンターにそのゲームをやるためだけに行った。

 

プレイし始めると、直ぐに30年前に戻った感覚が下りてきた。ネットで見た、YouTubeで見た攻略も思い出したけど、それ以上に30年前の自分で得たテクニックと知識が舞い降りてきた。自分で自分を見る事は出来ないけど、周りから見たら、くそダサい学生服でゲーセンに通っている、ニキビ面した中学生がゲームの前に座っているように見えたんじゃないか。

この時、30年前のベストなテクニックと、このゲームのほぼ全ての知識を蘇らせた、理想的なプレイで「世界を救った」。今迄何百と世界を救ってきたけど、約30年ぶりに世界を救った「回数」が一つ増えた。30年前の自分が下りてきているので、当時と同じように、楽しみ笑った。この時の充実感といったらなかった。

 

1週間近く経った後、どうしても、もう一度その感触を味わいたく、わざわざ仕事帰りにまた梅田に行った、また100円玉を50円玉に両替してゲームに挑んだ。でも、あの時の高揚感は戻ってこない。30年前の感触はもちろん、1週間前に感じた「30年前に戻った感触」すら戻ってこない。ダラダラとプレイをして、世界を救った数が1週間ぶりに1つ増えただけ。楽しいことは楽しかった、でもあの30年前の高揚感は戻ってこなかった。

 

あの日の1日、たった30分だけ、30年前の中学生時代に戻れた。

 

人生は一方通行で、現在から未来に向かうのみ。

過去を振り返り、過去の経験を元に、一方通行の道を進むのみ。

過去に戻ることなんてできない。

 

でもあの30分は間違いなく過去に戻った。

 

またこんな経験ができるのかどうかなんてわからない。

でも、もしまたあるのなら、何年後か何十年後かわからないけど、あるのなら、何百回と世界を救って平和をもたらした数が、また一つ増えることを、楽しみにしている。

無意識下の中を探す

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趣味でも仕事でも良いんだけど、自分が知らない、気が付かない興味のある事や、得意なことに出会うにはどうしたらいいんだろう。

 

今の自分の興味の延長上、先を見据えてこれはそうかな?って思うものや、既にちょっと興味の芽が出てるようなものは、ちょっと手を出してみたり、見様見真似で試すことが出来るかもしれない。

 

でもそうじゃない、現時点の自分では全く興味がなく、発想すらしないことの中に、自分にとって物凄く興味が沸く事や、人より秀でる才能が隠れてるかもしれない。とんでもないものが埋まっている可能性だってあるんじゃないかと、たまに思う。

 

例えば園芸とか全くやった事がないし、草木に1ミリも興味ないけど、スコップ持って土に触れたら、ひょっとしたらドハマりするくらい覚醒するかもしれない。此方から積極的に食べないので意識したことないけど、あんこの味なら人の100倍ぐらい敏感に感じられて、物凄いレベルの食レポ職人になれるかもしれない。どっちも無さそうやけど。

 

よく「本当にやりたいことがわからない」という人がいるし、実は自分もそうかもしれないのだけど、意識していない、意識出来ないものの中に、もし自分にとっての何かがあるのなら、それを知りたい。

 

じゃあどうやって、それにたどり着けばいいのか。やみくもに総当たりで、何か検索して片っ端からやるのも、流石に効率が悪そう。

自分につながってる人で、自分が興味のない事に興味がある人、関わってる人に教えを乞うて、その道に1日体験入学してみるとかいいのかもしれない。

ネットで調べてみるというのも無いとは言わないけど、この手の事は、やっぱり手足を動かして、外で実際に体感しないとわからないと思う。

 

やってみて、「ほらね、やっぱおもんなかったわ」になる可能性も高い、というか、8割9割方これかもしれない。でも残りの0.9割は「面白い!」なるかもしれないし、残りの0.01割に飛び切りの才能が発揮できる分野や、死ぬまでハマって、下手したらその道の大家になるレベルのものにぶち当たるかもしれない。

 

かのホリエモンこと堀江貴文さんも、中学生時代、コンピューターにハマったから今があるわけで、それは出会うべくしてであったとも言えるけど、案外たまたまの要素も大きいと思う。

イチローとか、3歳でアマチュア選手のおやっさんにしごかれてて、中学時代にすでにサインの練習をしてたような超例外は除いて、世の中ってこういう出会いがラッキーだった人が、そこに努力を上乗せして名を残してるんだと思う。

 

ホリエモンレベルとまでは言わないけど、自分を含めた凡人も気が付かないだけ、だったら探さないと。

 

元々なんも無いかもよというのは、また脇に置いとく話にしましょうよ、そこは空気読んで。

異世界を求めてる

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バイクでツーリングしてると、寄り道したり、行先を急に変えてしまう事が往々にしてある。車以上に景色が目に入りやすく、気温や風を感じやすいから、気分も変わりやすい。これはバイクに乗る醍醐味、メリットでもあるし、よくバイクが自由の象徴として、繋げて語られる理由も、この辺にあるような気がする。

 

高揚感いっぱいに、どんどん進む。路面を滑るように自由に走り、見た事がない物を見て、感じて、今まで無い刺激を受ける。殊の外の幸せを感じながら、無敵感すら感じる。

 

でもそのまま突き進んでるうちに、ふとある時、急にそこが異世界のようになる瞬間がある。日本の地方だし、日本人だらけで、日本語にまみれてて、店も商品も見慣れた物。それなのに異世界間を感じる、何処か知らない外国にいるような感覚になる。

それまで高鳴ってた高揚感が一瞬に冷めて、その異世界感が襲ってくる。

 

異世界を感じたら離脱の時。でも時計を見ても、どれぐらいで家に帰れるかわからない。そもそも迷わず一発で帰れるか自信が無い。勿論スマホもあるし、Googleマップで調べる事も出来るし、事実そうする。でもそういう理屈じゃない。

ここから異世界との孤独な闘いが始まる。

 

車では同じ感覚には見舞われない。車で遠出して、予期せぬところに行ったとしても、密閉された絶対的な自分だけの空間であり、外とは遮断されているから、そこは異世界にはならない。車の車内は完全に自分のテリトリーで、侵されない絶対領域異世界で無いから強気になれるし、何時間かかっても、どれだけ迷っても別に構わないと思える。なんならそのまま、何処かのホテルに宿泊してもいいってぐらいに余裕。

 

でもオートバイは違う。むき出しで、その異世界に自分は身を置いてる。味方は居ない、自分一人、孤独な一人。空気も、独特なその景色の匂いも、流れる風も、気温も、全て圧倒的な勢いで、異世界に身がある事を思い知らせてくる。異世界で独りぼっちという事実との闘い。無心で離脱しながらも、本能に近い感じで来た道を戻りつつ、より近く、より安心できる道が無いか探り、気が付けばルートが変わってる。生物としての帰巣本能がちゃんと働いてるし、その凄さを感じて、信じる。

 

異世界との闘いの末、見慣れた街や道を見たら、急に安心して、冷静な出発前の自分に戻る。空気も、景色の匂いも、流れる風も、気温も、全て知るもので安心感で包んでくれる。時間の感覚も戻り、あとこれぐらいで戻れるなと、見積もりも立つ、それもほぼ正確な見積もり。例えその街や道が家から4,50キロ離れてようがそう思える。そこから異世界は精々2、30キロ程度しか離れてない。でも距離では測れないものがある。

 

異世界は、一度制覇したら自分のテリトリーになる。見た事のある、安心できる景色と道に代わる、知れた景色と知れた道になる。だからその景色と道では、異世界はたった一度だけ。異世界が知れた場所に変わっていく。

そしてそこからまた足を延ばして、また異世界に飛び込んでいく。これを少しづつ、何年も何年も繰り返して、自分のテリトリーが広げながら、異世界を冒険し続ける。

 

ツーリングは異世界への冒険。

異世界を何処かで求めてる。

相談について

 

 

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相談に乗るのは嫌じゃない。どうやってそういう事が起きて、それをどう乗り越えて、ハッピーな物語を描きたいというのを聴く事は興味深いし、その物語に間接的にであれ、加われるのは嬉しい。単純に困ってる人の力になりたいし、悩みを出す位、信用してくれてるという事は光栄に思う。いやらしい話、逆にこちらが苦しい時は親身になって力を貸してくれることも期待できるし。

 

ただ、相談を受けて、結果何か此方から投げるとしても、それをどこまで受けてもらっていいのか考える時がある。前提条件を投げられて、知ってる限りで、相談を持ち掛ける人の性格や、その他諸々を考えたら、「こうじゃない?」と投げるけど、それってあくまでも断面を切り取って投げてるだけな気がする。気がするというか、多分そう。

別の日に相談されても、投げるものはそんなに大きくは変わらないと信じてるけど、それでもわからない。ひょっとしたらお互いのその日の気分や言い方で、何か変わるかもしれない。それが相手も理解してくれていたらいいけど、そうじゃなさそうな人も結構いる。「こうじゃない?」の最後のクエスチョンマークを取られて飲み込まれるのが怖い。

 

その人じゃない限り、全てを知らない。本人が気が付いてて、意図的にその事を言わないならまだしも、無意識で気が付いていないことだってある。その知らない事が、案外その投げられた質問に関しては大きかったりするかもしれない。たまに竹を割ったように、スパッと「それはこうだからこう!」っていう人がいるけど凄いと思う、嫌味でなく凄いと思う。俺は中々そこまで言えない、口調はそうであっても本心はそうじゃない。俺だって、その人との関係性によって出してる自分は違ったりするし、誰にも言わない、言えない感情や思いだってあるので、他の人も大なり小なりそうだとも思ってる。というか、全部出してるなんていう奴は、逆に怪しい。

なんというか相談って、持ち駒が一部見えてない将棋のアドバイスをさせられてるような感じがする。その見えてない持ち駒がいくつあるのか、どんな駒なのかもわからない中で、あそこに駒進めてこうしたらって言う感じ。リスキーさが消えない。

 

芸能人がたまに雑誌やTVでこういう相談受けてぶった切るけど、アレは楽でいいなと、勝手に上から目線で見てしまう。ああいった感じで言いっぱなしで、ハイ、さようなら~とは此方はいかない訳で。そしてあちらは相談者もそんなもんだと割り切ってる節もあるし。

 

「じゃあ、あなたはどうしたいの?」と返し、極力自分の意見を出さずに凌ぐのが無難。でも、そもそもそれがわからないから相談されるわけで、その言葉は逃げな気もする。求めるのは「あなたはどうしたいか」の深堀りだけど、それをそのものズバリの言葉で投げかけるのは、味気ないし、無粋な感じもする、突き放してるような。

なので受けるものの礼儀として、その言葉を使わなくても同じように、「あなたはどうしたいか」を深堀出来るだけの力を持たないといけない。それは考え方であったり、語彙力であったり色々あるんだろうけど、先ずはそういう意識を持っておきたい。

 

意識無意識関わらず、その人のすべてがわからない以上、最適な答えとかアドバイスは相談では出てこない。結局相談の答えって、相談してきた人が自分で見つけるしかない。相談を受けた者がやれる「確実」な事はそれを即すだけ。

受けた相談の中で答え「的」なものを出す事に限らず、もやもやした物しか残らなかったとしても、結局最後にそこに行きつけば意味があると思うし、自分で相談を受けていても、最後はそれが希望というか救いになる。

 

相談を受ける以上、最後の最後、その人の考えを乗せる余地のある投げかけを出せるようにしたいなと思う。