書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

アイツのこと

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根が元々1人でいるのが好きなのと、子供の時は特に今で言う陰キャだったので、今でも繋がってる地元の友達と言うのが1人しかいない。その1人「アイツ」とは中学1年の入学初日に初めて会って以来の縁になる。ウチの公立中学は4つの小学校の進学先で、入学初日、四分の三の知らない顔に囲まれ、皆お互い緊張牽制し合うあの状況の中で、名前順で席が暫定的に決められた時に初めて話をした。どっちがどういうタイミングで話しかけたのかは忘れたけど、何の話をしたのかはもうはっきりと覚えてる。ファミコンゲームのBGMを口ずさんで、何のゲームの曲か当てっこしてた、その時の瞬間は凄く覚えてる。昔、アイツにその事を覚えてるかと聞いた時、アイツも同じようにその時の情景を語ったから、アイツにとってもそれなりに印象に残ってる出会いだったんだろう。

 

それからアイツとはずいぶん仲良くなり、お互いゲームが好きという事で、ファミコンゲームをやりにお互いの家に行き来して遊んだ。奴には年の離れた兄がいて、その兄もゲーム好きで、あいつ経由で聞く、年上の人がやるゲームのソフトやテクニックの話、その他諸々の情報なんかがとても刺激的だった。ついでに、思春期特有の性の情報なんかも、あいつの兄貴経由でその時随分輸入した。

 

中2となってアイツとは別のクラスになった。俺はその頃から酷いイジメに合いはじめた。アイツは気が付かない、知らないふりをしてくれた。綺麗ごとではなく、あの頃、違うクラスの人間が助けに入るなんて無理な事だったし、仮にアイツ1人が何か割って入ったとしても何も変わらなかったのは間違いない。なら、逆に親友だからこそ、いじめられてるその姿を見られたくは無かった。1年間沈黙して、俺の最低限のプライドは守られた。

 

中3になり、アイツとまた同じクラスになって一緒につるむようになった。中1の頃と比べてゲームの話は減ったけど、その分音楽とか漫画とかの話が増えて、周りの男子と同じような話題が増えた。思春期に入り、俺はさらにアホっぽくなったけど、アイツは大人になってて、ゆっくり確実に、気持ちを込めた濃い事を話すようになった。元々地頭もいい奴なので、そんなアイツとの語らいが楽しくて楽しくてしょうがなかった。この頃にはイジメも嘘のようにピタッと無くなっていたこともあり、暗黒時代だった中2と比べたら真逆の幸せな中3だった。

 

頭の良いアイツだから、塾など行かずとも高校は公立の進学校に行き、俺は馬鹿だから塾に行っていたけど(勉強はしなかったけど)地元の公立の普通の学校に。クラスどころか学校が変わってしまったので、高校時代アイツとは連絡も取らず。あっちも上手い事やってるんだろうと思いながら、あまり気にもしなかった。俺は俺で新たに知り合った友達と馬鹿な事ばかりして、順調に幸せだった。女っ気が無かった以外、楽しい楽しい青春時代だった。

 

その後高校を無事に卒業、一浪後三流大学に滑り込んだ。ダラダラしてた1回生の末辺り、中3の同窓会が開かれ、アイツがきた。待ち合わせ場所の京阪電車香里園駅で再開したアイツは随分大人びていて、更に変わったように見えた。益々落ち着き、話す言葉も内容も濃くなっていた。3次会のカラオケで、店にあったアコースティックギターを上手く弾いてて、えらく眩しかった。以前、たまたまアイツの母に街中でばったり会い、近況を話し合った時に、関西の某国公立大学の理系に進学したと聞いていたので、流石にそこに入るだけの事はあるなという感じだった。

 

その同窓会以来、頻繁に連絡を取り合って、付き合いが復活した。大学の仲間と遊び、それとは別にアイツと遊ぶ。相変わらずアイツと遊ぶと楽しい。でもこの頃から何か違和感も感じ始めていて、アイツの背後に人の気配が無いのが気になった。いつも一人な感じがして、それが凄く気になった。俺を基準にしたらダメなんだろうけど、それでも大学生時代って仲間がそれなりに居て、人生の中で一番仲間や周りの大人にしがらみ無く、もみくちゃにされる時期だと思うんだけど、そういうのが感じられない。俺も仲間と夜中まで遊んで、バイトに明け暮れ、車で走り回り、勉強なんて全くしなかったひど過ぎる学生だったけど、奴はあまりにも真逆すぎてちょっと驚いた。聞くと高校時代から友達らしい友達はいなくて、大学にもいない、バイトも通学の時間の関係で出来ないのでしていないとの事。そんな話を聞いたらおせっかいの虫が騒ぎ出してしまって、俺の大学の友達の輪に強引に放り込んだ。みな快く受け入れてくれ、アイツも楽しそうにしてくれた。一緒に馬鹿な事もやり始めて、卒業旅行では6人でいったけど、唯一アイツだけが学校が違うのに一緒に行った。楽しかった。

 

楽しかった卒業旅行から各々社会人になった。大学で友達が出来なかったそのコミュニケーション能力では、教授との関係もあまりよかったものではなかったらしく、理系学生ではよくある教授のコネでも、良いところは回せてもらえず、自分で見つけた大阪の地元の中小の会社で働いていた。でもアイツから仕事や職場の愚痴なんて聞いたことが無かったし、頑張ってるのが聞かなくてもわかった。働き始めて3年4年と経ち、大学時代の友達とは中々会えなくなった。会えなくなったが、会わなくなったに変わっていっても、アイツとは折に触れて会っていた。会うのはいつも金曜か土曜の深夜で、「深夜の散歩」と称して、夜中車で近所を流しながらしょうもない話をしたり、深夜のゲームセンターで、お互いこの年になってハマったゲームを中1の頃のようにギャーギャー言いながらプレイしてた。その頃、俺は仕事で燃え尽き追い込まれて、徐々に病み始めていった時期で、一番遅くまで会社にいて、尚且つ会社を出てしまうと、翌日また地獄の1日が始まる事が恐ろしくて、帰れなくなるような状態だった。そんな時も、23時半を回っているのに、あいつは車を飛ばして俺を迎えに来てくれ、2時位までやってる深夜のゲーセンに連れ出してくれた。アイツが来てくれることが救いだった。

 

最終的に病んでしまってその会社は辞め、また違う会社で復活をしたが、今度はアイツがやってしまう。ある日あいつの母親から「会社から出社してないと連絡が来た、何処にいるか知らないか?」と来て心底驚いた。アイツは何も言わなかった、言ってくれなかった。いい大人でもあるのだから、そんなに心配しなくてもいいのかもしれないけど、それでも心配で心配で仕方がなくて、地元を探し回った。3日後ひょっこり戻ってきて、アイツの母親からの電話の後、アイツから電話があった。あの大人しく聡明で、自制心の塊のような奴が、泣き腫らした後、声も絶え絶えで「すまなかった」と一言。もう俺も何も言えず、とりあえず休んでくれとしか言えなかった。人間関係が原因だったようだけど、後で聞いてもあまり深くは教えてくれないし、言いたくないのなら無理してまで聞きたくないし、逆に俺だから言えない事もあるんだろう。中2の時の借りを返す意味でも、無理に聞くべきではなかった。

 

それから半年ほど、「深夜の散歩」を毎週末して、たわいもない事を語り合った。変わらず楽しかったけど、この前後で確かにアイツはちょっと変わったと思う。なんとなく、もう「まっとうな人生」を歩めない感を持ち、それはそれで受け入れたような感じを受けた。俺も最初の会社でメンタルをやってから、同じように「まっとうな人生」は歩めないよう思ったけど、だからこそ逆転するためにも、何かやらなきゃ的な反骨神があった。対してアイツは粛々と受け入れるというような感じ。次の仕事もあまりこだわりなく、地元の会社をサラッと決めてきた。俺が「動」ならあいつは「静」というか。でも間違いなく世の中に貢献できる、人として優れているのはアイツのほうだと俺としては思っていたので、なんとか表に出て欲しいという思いをこの時はぶつけていた。今でこそこれは要らぬおせっかいだったと思うけど。

 

2年ほど、そんな感じの日々が続いた後、またあいつの母親から同じ連絡をもらう。前回の事もあり、心配ではあるけど、それでもまたひょっこり帰ってくるとタカを括っていたけど、1週間たっても2週間たっても帰ってこず、とうとう警察に捜索願まで出すことになった。流石に嫌な予感がするもどうすることも出来ない。今の仕事は車で通勤しており、車ごと失踪してる事から、探すといっても見当が付かない。アイツの母親から「どうしよう」と聞かれ、最悪の状態なんて想像したくないけど、それもよぎった。結局三ヶ月後位に、アイツは九州で車中泊中に職務質問をされ発見された。それを聞いて安心したけど、奴から直接何も連絡が無かった。でも多分、俺が同じ立場なら俺も連絡は出来ないと思うので、それに対しては何も思わなかった。

 

一ヶ月ぐらい経ってから、俺の方から「深夜の散歩」に出ないかと声を掛け、アイツも緊張した感じの声で「OK」を出して会った。もうお互い、将棋の後の感想戦の様な感じで、互いの手が決まってて、お互いどう最後の言葉に持って行くかの話。そこはやっぱり長い付き合いなので、なんとなく安心して俺も一手、アイツも一手、そして「割と今回はマジで心配したわ」が王手で、「すまなかった」で投了みたいな感じで終わった。今回も理由は聞いてない、今度は一つ貸しになった。とは言え、おそらく人間関係だったこと、それもどの類の人間関係で折れたのかもなんかわかったので聞かなかったし聞きたくも無かったから、貸しにはならない。

 

そこから暫くして、アイツは俺のパートナーさんがバイトをしているパソコンスクールに紹介され、バイトに行くようになり、緩く社会と繋がる方向に舵を取った。30代の男性ビジネスパーソンだと、どうしても会社の中心的な動きを任されるし、人とコミュニケーションを取るのが苦手なアイツからしたら、このポジションの方が気楽で良かったんだと思う。そのうちパソコンのスキルが認められ、他のバイトも紹介されたりと、なんだかんだ緩くも上手く回り始めてきた。その頃、俺は転職で名古屋に行ったり、家庭は家庭で騒がしくなってきた事もあり、月1位の夜の散歩も絶え気味で、3月に一回とかのペースになっていた。

 

そんな時、アイツの方から電話がかかってきた。アイツからかけてくる事は珍しく、今でもハッキリ覚えてる。嫌な予感がしたので仕事中にも迷わず出ると、母親が事故で急死されたとの事。慌てて仕事を早退し、直ぐに近所の祭儀場に向かった。亡くなられた母親の顔よりも、アイツの顔が見れなかった。それでも当たり前だけどお悔やみの言葉を述べて、通夜に参加した。最後の挨拶の時、親父さん、兄貴、アイツと並んでいて、口を真一文字に結んでいたアイツの顔をまともに見た時、この場から逃げ出したかった。俺以外にアイツの友人らしき人は誰もいなかった。アイツの知り合いでは唯一俺だけがあいつの母親を見送った。

 

アイツはその後、「主夫」になった。親父さんは現役で働いてるし、年の離れた兄貴も勿論そう。母親が亡くなり、皆で主婦業を分担するよりその方がいいだろうと家族会議で決まったと、線香を上げに行った時に聞いた。素直にそれが一番いいんじゃないかなと思ったし、頑張れよと心から伝えた。それが8年前の話で、そこからは深夜の散歩も、三ヶ月に1回が、半年に1回になった。親父さんは朝5時出の生花市場、兄貴はシフト制の工場で時間が不規則な一家の主夫なので、中々深夜の散歩に出てこれなくなった。たまに顔を見たかったけど、でも根回しをしてまでの事でも無く、それが疎遠になったというのならそうなのかもしれない。車で10分、歩いて20分の距離に住んでいるけど、そういうのは関係なく遠くなった。

 

もうこのまま暫く安泰だろうと思ってた4年前、アイツは倒れた。朝、家族のために朝ご飯を作ってる時に脳梗塞で倒れた。幸い家族の目の前だったこともあり、すぐに救急車で病院に担ぎ込まれ、処置を受けたので、障害らしい障害は一切なかった。ただてんかんのリスクがあるという事で、薬が処方され、車は運転出来なくなった。アルコールもダメという事で、もう飲みに行けなくもなった。また遠くなった。

 

昨年の夏以来、連絡を取ったのが今年の6月18日で、「大丈夫だったか?」と聞いて「問題ない」で返されて、「じゃあまたな、何かあれば何時でも言えよ」で、「わかった」で終わった。お互い次の相手のセリフがほぼ予想出来ると思ってるし、今回もそれが正しかった。

 

これからもアイツとの縁は、何方かが死ぬまで続くと信じてる。

住んでるところは近いけど遠い。

でもお互い遠いぐらいがちょうどいいのかなと、この歳になってようやく思えるようになってきた。

 

中学生の時、2人で家でファミコンをしていた時間がそのままずっと延長して続いているような感覚。

 

別にアイツを今更何処かに引っ張り出したいわけじゃないんだけど、これ以上世の中に知らされないままアイツが年を重ねていくのが、なんだか切なく思う。

 

ここを読んだ人だけでも、こんなアイツがいる事を知っておいてもらえたら嬉しく思う。

絶対評価と相対評価

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先日、バイクに乗ってて、「あかん!乗れてない!」と感じる場面があり、鍛え直すために、某国際サーキットにあるバイクスクールに参加してきた。

 

参加者は若い人もいれば俺より年配の方もいて、玉石混交な感じ。こういう時って周りが必要以上に凄く見えるし、かなり打ちのめされるだろうなと、それこそ赤点もらうのを覚悟で参加。

緊張の中、スクールが始まったけど、意外や意外で、周りと比べて結構いい感じで乗ることが出来た。勿論もっと上手い人もいたけど、最初に感じた不安感なんかどっか行ってしまって、「お、俺以外とやるやん!、ヘタじゃないんやな~」と内心にんまり、午前中の前半戦はニッコニコ。

以上、自慢終わり。

 

でも、この後の昼の休息の際、なんか大事な事忘れてる気がして引っ掛かってしまった。休みの日の朝5時起き、遠路はるばる3時間かけ、万単位の金払って、朝から夕方まで、汗だくで講習受ける理由はなんだろうと。

 

自分で自分に満足できる、理想の腕前があって、その理想に近づきたい、昨日よりもその理想に近づいていたいから、わざわざここに来てると思い出した。

 

周りのライダーと比べて街中で一番早く走れようが、サーキットでプロのレーシングライダーに勝てようがそんなの関係ない、何処かの誰かと「比べて」上手くなりたい訳じゃない。「あー、俺って乗れてる~」と、交差点で止まった時、ヘルメットの中の不細工な顔がニカっとほくそ笑む事が出来れば満足。他人と比べて相対的に上手くなりたいんじゃなくて、自分で納得できる、自分の中での絶対的な基準で上手くなりたいと思ってる事を思い出した。

 

それを頭の中で意識しなおせたので、以後はレッスン中、他人と比べる事もやめ、変に余裕を出したり、だらけたりすることも無く、集中して自分の課題に取り組む事が出来て良かった、心地よい疲労と達成感に満たされた。

 

他人と比べて勝つことが優先なのか、自分の自己満足が優先なのか。

 

前者なら、自分では不本意な結果でも、他者に勝てばそれは達成、心は満たされ報われる。

後者なら、他人に勝っても、自己満足出来なければそれは不本意な結果であり、報われない。

前者なら、自分ではやり切った満足な結果でも、他者に負けていれば、心は満たされず、無力感に苛まれる。

後者なら、自分でやり切れていれば満足で、他人に負けても心が満たされ、自己肯定感に溢れる。

 

前者は相対評価を求めてるし、後者は絶対評価を求めてる。

 

何方を求めるのが幸せなんだろう。

 

色々あるけど、特にお金の事と仕事の事。

 

相対評価でお金の事を考えると苦しくなる。俺よりも資産を持ってる、俺よりも給料が高いとか聞くと、あまりいい気がしない。今の資産は確かに不満足、給料も高いとは思わないけど、それでもその比べてる人の分を仮に超える事が出来ても、何か自分の満たされないものが、具体的に満たされるのかと言えば違う。具体的にそうなっても、これが出来る、これが解消される、これが買えるから幸せになれるとかそうじゃない、只数字が大きくなるだけ。今でもある程度欲しいものは手に入れてるし、飲み食いや交際費にもそんなに不自由もしていない。そして相対評価してる以上、仮に目標とする人を超えたら、またその次の上の人に対してコンプレックスを抱いて、勝手に比較するんだと思う。次から次で終わらない、満たされない。

 

仕事に関しては相対評価かと思ったけど、去年あたり色々あって、今の仕事が凄く好きで、自分にも改めて合ってる事がわかったので、手を抜かず、自分の理想通りにやりたいと思えてきた。営業職なので、一番分かり易い「数字」と言う、これ以上相対的に評価するのに適している世界は無いところにいるので、他者との勝ち負けからは逃げられない。でも、自分にとって1円でもライバルに勝てばそれで満足かといえば違う。競争し、高め合うのは最低限の話で、その中でどれだけ自分でポテンシャルを出し切り自己満足出来るか。また、どうしても運の要素がある職種でもあるので、仮にダメな時でも、絶対評価の軸を持っていれば、自己肯定を必要以上に傷つけられるような事にはならないだろうし、改善策を考えるモチベーションや、今を凌ぎ、時期を待つような心の強かさも自然と得られるはず。

 

勿論、単純に絶対評価相対評価で簡単に割り切れない事も多いし、割合も0か100かでもないだろう。全て絶対評価でいくのも難しいのはわかってる。苦手な事だからこそ、相対評価で済ませた方が無難な事もあるだろうし、時には絶対評価で追い求めるから、苦労が何時まで経っても終わらなかったりして苦しむこともある。また、途中で評価の軸が変わる事もあるかもしれないので、都度振り返りできるよう、自分のアンテナの感度もよくしておく必要もある。

 

自分とよく対話をして、どちらが自分にとってより幸せに進むのか、自分でちゃんと意識して、絶対評価軸なのか相対評価軸なのか、ちゃんと捉えて取り組めるかどうか。

 

ただまんべんなく、流れでだらんと物事に当たるより、その辺を意識していきたいと思う。

2割

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先週の初め辺りに体調を崩してから中々完調にならない。熱や痛みがある訳でもなく、普通に動けているので、傍から見ても何時もと変わらない。でも体に引きずられて、心の余裕が無くなってる。起きる出来事に対しても、受け身で出来るだけコンパクトに無難にまとめようとしてるし、何かアイデアや意見を投げられても、それに新たに自分の考えを乗せようと思わない。仕事の話でも、振られてきたものはそのままこなすというか、そこからより大きく貪欲にいこうと思わない。投げられるものに関してですらそうなのだから、此方から何か投げようなんて勿論思わない。

 

今は刺激とか変化を避けたい。変化や刺激に関して孤独でいたい。何もせず時間を過ごすなんて、普段なら一番忌み嫌う時間の過ごし方だけど、今はそういう時間を堪能したい。無人島でぼーっとしていたい感じ。でも実際にその時間と金があっても、それを実行に移す気力がないぐらい、今は無気力。電池が切れたみたいな感じ。反応してアクションを起こす敷居が、自分の中で恐ろしく上がってる。

 

感覚的に何時もの自分から「2割」引きになってるように思える。2割というのが微妙で、ギリギリ迷惑かけずに社会で動けてる感じなんだけど、一切余裕がない。余裕が無いから自然に守りに入ってるし、心も体も温存しているような状態。気持ちに上下も無くて、ある意味静かに平穏に過ごせてるけど、何時もの自分が俯瞰して見たら、無駄のない無表情なロボットみたいに思える。2割の余裕で随分人生楽しく過ごしてきたんだなというのがわかる。

 

この状態のまま抜け出せなくなるのが怖い。今みたいな感じが逆に当たり前になってしまうのが怖い。今が10割で昔が「2割増し」だったとなるのが怖い。俯瞰してこうやって書けてるうちは大丈夫だろうと思いたいけど。

 

人間、余裕があり、満たされてるから、「更に」いう欲が出て気力も充実する。「更に」が活躍を大きく広げるし、より楽しみを深堀して満喫できる。余裕の部分で無駄や冒険が出来る、予定していない未知のリスクを背負えるから、予定外の出来事に巡り合えて、それが望外の刺激になり、幸せに繋がっていく。余裕がないと幸せな生活が送れないってそういう事。余裕は大切。

 

心と体の2つが共に完調、これが合わさって初めて余裕が生まれる。心と体、片方が片方に影響を与えるって何となくピンとこなかったけど、今回それもよく分かったし、どっちかが落ちて深みにはまると、お互い引っ張り合って、悪いサイクルに入ってしまう怖さを経験した。 心と体、どちらも大切だけど、前者は兎も角、後者をあまりにも今まで考えなさ過ぎた。体調を崩して初めて俺は自分が思ってる以上に心身ともに脆いという事を思い知らされた。

 

今回の事で、余裕がある状態を真剣に考えるようになったし、常にこの状態を維持しないといけない事を思い知らされた。一回余裕を無くすと、元に戻すのも大変で、長引く前に、自分なりの何か対策を作っておくことも必要だと思う。こういう事って、本や人聞きに、当たり前の当たり前すぎるぐらい聞くことだけど、自分の身に降りかからないとわからなかった。その点では大きな事になる前に気が付けてよかったのかもしれない。

 

過信せず、脆い自分と向き合って、常に「2割の余裕」を持って生きていきたいと思う。

 

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ここ数日、顔を合わす半分位の人との最初の一言が「桜咲きましたね~」。これ書いてるのは3月の末で、何処に行っても桜が咲いてる、咲き乱れてる。綺麗だから好いんだけど、それにしても所かまわず咲き過ぎじゃないかと。こうもあったら、ありがたみも無いような気がしないでもない。

 

桜は花の色とか大きさとか、その樹の大きさとか、全部合わせてしっくりくる。全部が上手く調和して、全体で「桜」っていう感じが好き。あの薄いピンクと書きそうになるけど、「桜色」、桜色が優しい感じがして好き。濃くても薄くても味気ないし、あの色合いが丁度いい。小さな子供の、結んだ手位の花びらの大きさも、主張が五月蠅過ぎずいい。それでいて一つ一つの花びらが集まって満開で、全体で一つの「桜」として咲いてる。一つ一つは優しい感じが、集まると華やかな感じ。そのくせ樹の幹はしっかりとしていて、色も花びらの色とは対照的に強めで、力強さを感じる。バラやひまわりとか、分かり易い花は他にもあるけど、あれは花びらだけ。桜は全部で桜。

 

やれグローバルだなんだで、国の概念が薄くなっていくけど、自分の所属してる国とか地域を象徴するものとして、花は結構なポジションを得るのではなかろうか。その花は、身近にあって、親しみ深いんだけど、それでもその辺に咲いてる花とはちょっと違う、趣や情緒を感じる花でないといけない。そう考えると、個人の想い出は別として、バラとかひまわりは、そういう望郷の思いに駆られない。因みにアメリカの国の花はバラで、ロシアはひまわりとの事。バラは西部開拓時代の真っ白い大きな家の庭に咲いてる感じで、ヒマワリは広大で肥沃な大地に物凄い数が咲き誇ってる感じがする。アメリカは兎も角、ロシアなんか行った事無いけど、何となく当たってるんじゃなかろうか。その国を想像できるし、人と花の繋がりがわかる気がする。

 

そういう風に考えると、日本に生まれ育った人は自然と桜だと思いたい。みんな思い思いの場所で、違う時間に桜を見ているけど、みんな見ている桜は同じ、同じ桜を見ている。国粋主義とかじゃないけど、桜で団結できる日本人は素敵だと思う。50年後、100年後も、同じ桜を同じように見れたら素敵だと思う。肌の色も、しゃべってる言葉も隣の人とは違うかもしれないけど、同じ日本に望郷を思い浮かべる人と、桜で繋がれたら素敵だと思う。

 

何時迄も桜を愛でれますように。

感謝

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Aさん、私はあなたに感謝します。

 

7年前に入社した際、あなたは直属の上司でしたが、私は随分いじめられましたね。わざと間違った待ち合わせ場所を教えられ、取引先の社員多数の面前で罵倒されたこと、入社以来一週間、毎日辞めろと詰め寄られたこと。むちゃくちゃなノルマを上積みさせられ、それがクリアできないと、1時間近く電話で謝り続けさせられたこともありましたね。心配した周りの方々がフォローしてくれましたが、同時に、あなたが私も含めて何人もの人を、パワハラで追い込んで辞めさせたというのも聞き、更にショックを受けました。いよいよ追い詰められ、逃げようと思いましたが、寧ろあなたを見返そうと、猛烈に意欲が湧き上がってもきました。

 

入社3年目で初めてノルマをクリアしました。あなたの部下で、あなたのチームの数字に貢献しました。あなたは一言も感謝の言葉をかけてはくれませんでしたが、私は誇らしい気持ちでいっぱいでした。4年目、5年目も連続でノルマをクリア。寧ろあなたのチームで、あなただけがクリアできず、チーム全体としてノルマが達成できないことが続きましたね。このころから、私には何も言わなくなったのを覚えていますか?同時に、部門長から個別にあなたが色々指摘されている噂も耳にし始めました。6年目、7年目はあなたの下を離れましたが、私は更に大きく成長し、昨年は営業成績総合1位で終えました。表彰式後のパーティで、あなたが伏し目がちに、小さな声で「おめでとう」と仰ったの、私は聞こえない振りをしました。あなたからの「おめでとう」は受けたくなかったのです。あなたに私の労を労う資格はないと思っていたので。

 

今年私は昇進し、あなたはここ数年の成績不振から降格され、社内ポジションが同じになりました。ずっとパワハラをしてきたツケか、あなたを憐れむ人はいませんね。陰でバカにされていることを、御自分でも気が付いているから、皆で食事に行くときも一人来ないのでしょう。

 

Aさん、私はあなたに感謝します。

 

あなたを恨んではいませんが、許したわけでもありません。でも、今の私の成功があるのは、間違いなくあなたがいたからとも思います。それを認めて、ここであなたに感謝できる人間でないと、私は人として成長できない気がするのです。あなたの存在は、理不尽な程厳しく、辛く、恐れの象徴のように思いますが、何時までもあなたの事を意識しながら、仕事をしていくような気がします。

 

願わくば、いつか2人で飲みに行きましょう。その日まで互いに頑張りましょう。グラスを傾ける際、ここまで成長できたきっかけになったと、心から感謝したいです。その時、全てにおいて私には叶わないと褒めてください。その日が来るのを楽しみにしています。

メメント・モリ

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本棚に唯一置いてる写真集は、景色や芸術品のそれでも無く、ましてや女優さんのでもない。生と死に関するもの。忘れたころに読み返してる。

生と死とは何ぞや?って、みんな中学生ぐらいの時には考えるっていう。考えると、怖くて眠れなくなったとかもよく聞く。でも大概みんなある程度のとこでそんなの考えなくなるし、多分それが正解だと思うんだけど、ホンの少しだけそこに興味がまだ残ってて、ちょこちょこその手の本を読んだり、極々たまに考え込んでしまう。色んな考え方、捉え方を知ったし、自分の生き方とかポリシー形成に確実にそれらが役にも立った。でもどれだけ本を読んでも結論なんか出ないし、出たら出たで宗教家デビューできる。まあでも、教祖様で金儲けまくりでウハウハと思ってしまう時点で、まともな宗教家にはなれそうにないけど。

 

高校生の時、図書館で「メメント・モリ」と言う写真集を偶然見てしまって、結構な衝撃を受けた。メメント・モリとは「死を想え」というラテン語の警句。その写真集も、「死と生」がテーマで、人間も動物も植物も死んだらおしまい、でもそれはそれでいろんな意味がある、そこからまた命がはじまるというもの。生々しく、幻想的な写真と、そこに添えられている詩に、息が出来なくなるぐらい引き寄せられた。ガンジス川で荼毘に付される亡骸や、動物に食べられる亡骸もぼやかさずそのまま、その写真についてる詩が「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」。今でもよく覚えてる。

 

その時はこの本のテーマに相対する勇気が無く、無理に手元においても、おかしくなりそうで怖くて手に入れなかった。後に大人になり、それが藤原新也という有名な写真家の作品なのを知り、たまたま10年ぐらい前にこの本が新装版で出たタイミングで手に入れて、それ以来偶に読み返してる。

 

特に好きなのが、

 

「死は生のアリバイ」

 

「死というものはなしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最期のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選び取るのです。だから、生きてるあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。」

 

「死とは死を賭して周りの者を導く人生最後の授業」

 

の3つ。

 

あと、最後の結びに、「この本は、汚れれば汚れるほど良い。聖書やコーランのようにいつでもどこでも何年も暇があれば汚れてメロメロになるまで読んで欲しい。そしてその結果、写真や詩を、いくつ感じ、幾つ解釈し、幾つ乗り越えるだろうか。」とあるのも気に入ってる。俺のはまだピカピカなので、もっと読まないとと、毎回思う。

 

身近な人の死を前にして、人は死を知る。俺も初めての身近な人の死は、父方の祖母で、次に母方の祖母、母方の祖父。何の予兆も無く急にだったり、あまりにも脆くあっけなかったり、徐々に予想通り弱っていって予定通りの大往生も。炬燵の中だったり、施設のトイレだったり、家の布団の中で眠るように逝かれたり。

 

訪れるタイミングにあたっては、色々すぎて、何か特別な知らせみたいなのがあるとは思えない、あっても気が付かない。普段は隠れているだけで、本当はそれだけ日常に死というのはあって、ふとした瞬間圧倒的なインパクトで目の前に出てくるだけ。

 

皆、死に方や死んだ場所は違うけれど、全員違う事を教えてくれた。人生の先達が最後に生とは何かを死を通して教えてくれる。

 

人の死は生とは何かを対照的に浮かび上がらせてくれる。死は与えられるのではなく、自分で行使するものなんだと思う。生が生足らしめるのは、死があるから。死も込みで生だから、死には立派な意味があると思う。

 

なんと死とは生きてる事を輝かせることなんだろう。

言葉のやり取りについて

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自分が見ているものと、他人が見ているものが同じなのかどうかわかんないって、子供の頃からずっと思ってた。例えば自分が見て赤と思う色があって、他の人も記号としての言葉で赤というけれど、でもその赤って本当に「自分と同じもの」が見えてるんだろうか。

 

その他の人が見て発する記号の「赤」は、自分の見ている「青」や「緑」みたいな感じなのかもしれない。でもそれを確認出来ないし、多分ずっと証明できない。自分の体にその他の誰かが乗り移るか、脳と感覚器の眼を共有して初めて同じかどうかわかる。

 

こんな事考えるの自分だけじゃないのかとその時は思ってたけど、大人になってから、哲学的な問題として割とメジャーな話なんだと知った。

 

これって言葉もそうなんだなと思うし、それを意識すると、怖くてたまにしゃべれなくなる。

 

料理の味を聞かれて、「美味しい」と答えても、そもそも美味しいって表現している感覚は、他の人と同じなんだろうか。他の人は、俺の言う美味しいという感情を表現する時、体の中で爆発するような感覚があるのかもしれない、脳天に稲妻が落ちるような感覚があるのも知れない、俺だけがないだけで。俺は物を食べて、味わった際、何とも言えない快感と言っていいのか、何か幸せを感じる感覚を感じた時、「美味しい」というけど、皆はどうなんだろうか。

 

暖かいとか、寒いとか、温度のような数値で表せることもあるけど、それだってどう感じるのはあくまでも主観だから、結局無意味。全部全部、ぜーんぶ、こうなる。

 

相手に伝わるか曖昧な形で発信せざるを得ない、相手からも曖昧な形でキャッチせざるを得ない、曖昧な形で自分の中に取り込まざるを得ない、で、また曖昧な形で発信せざるを得ない。

 

言葉のやり取りで、自分の思う感情や意志を、完全に伝える事は出来ない。結局人間孤独なんだな~って何時も思う。

 

それでも言葉のやり取りで、互いにずれを修正し合って、伝わる事を80%を90%に、90%を95%に、95%を99%には出来るかもしれない。

と、同時に、10%のずれ、5%のずれ、4%のずれを許し合いたい。そしてそれを許せるから、人にやさしくなれるんだとも思ってる。

 

だから言葉をやり取りする事って、骨が折れるし、大きく間違ったら変な事にもなるし、ハッキリ言って疲れるけど、俺にとっては大切な事。

 

こんなこと考えるのどうかしてるのかもしれない。そしてこう考えてしまう俺は、あんまり社交的じゃないんだと思う。

 

それでも言葉のやり取りしかわかり合う事はできないと思うので、これからもどうか皆様お付き合いくださいませ。