不愉快な事をされたり、言われた時って、「された行為」と「行った人」が対になって記憶に刻まれてて、文句を言ったり反論するにも必要以上に力が入ったり、何時までも許せなかったり。
でもその「された行為」と「行った人」を分けて考えたら随分楽になった。
同じ不愉快に思う事でも、信用していた人にされるのと、どーでもいい嫌いな人にされるのでは、受ける印象も違う。身内にされるのと、赤の他人にされるのもまた違う。先輩後輩でも、性別でも、年齢でも違う。対で考えてしまうと、その行為や言葉の意味が歪められたり、変数みたいのが掛けられてしまう。
結果
「お前になんか言われたないわ」とか
「何も知らないくせに偉そうに」とか
「どうして俺の事認めてくれないんだ」etc...
とか、ありがちだった。
言われた事、その指摘に大きなヒントがあったりするのに、そこに至る前で止まってしまったり、逆に1秒でも悩むのがアホらしい、ただの中傷が重荷になって、後々まで考え込んでしまったりで、メンタルも時間も勿体無いなって状況が多かったような気がする。
でも分けて考えれたら、純粋にそのされた事、言われた事の意味を、正面切って考えれるようになった。
結果、「まー別に俺は該当しないし、俺には意味のない事だし無視だな」とか、逆に「これはこれで正論だから受け入れよう」とか、「悪意全開、ほっとくと後々面倒だからちゃんと反論しよう」とか、割と意味のある、先を見た判断を出来るようになった。つもり。
受け入れるべきことは受け入れ、違う事は違うと伝える。もしそれでも届かないような相手は「輝かしい人生を無駄にするミジンコ」だと思うようにしとこう、そうしよう。
人に変えられるんじゃなくて、自分で変わる人生を歩みたいですね。