書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

選択について

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世の中で起こるすべての出来事、自然現象も人間が行う事も全て、その規模程度も全て単独では終わらず、必ず後の何かに影響を与える。

 

石ころが転がったら、土砂崩れになるかもしれない。石ころが転がって終わりかもしれないけど、空気はそれで動かされてる。正に「リオデジャネイロで蝶が羽ばたくと、数週間後にはテキサスで竜巻が起こる」(カオス理論、バタフライ効果)とかの話で、要はどんな些細な事でもそれが色んな事に変化を与えて、全く想像もしていなかった未来の出来事に繋がっていくというこの考え方が凄く好きだし、自分のどんな些細な選択でも、後の自分に大きく影響を与えてると思う。

 

例えば仕事中、ちょっと休息で車を停めて珈琲を飲んだとしたら、休まなかったら5分早く通り過ぎてた道で事故が起きて渋滞、予定していたアポイントに間に合わず商談失敗。その商談が上手く言ってたら他にも芋づる式に他の案件が口伝で出てきたかもしれないし、それが成っていたら競合会社にも評価を受けてヘッドハント、インセンティブでフェラーリ

 

 珈琲飲んだからフェラーリ逃した!は、雑な例えとしても、自分が都度都度選択した事は、全部未来の自分に繋がり降りかかってくる。単独では終わらない。

 

ホンの些細な何でも無いその時の選択が、後の出来事に大きな影響を与えるという事は結構聞く。たまたま偶然受けた些細なサービスでその企業のファンになり、そこに入社、出世して会社の方向性と世の中を変えたとか往々にして聞くし、その逆のような話も勿論聞く。自分も些細なタダの偶然で足繫く通う店が出来たり、好きになった商品なんて数えきれない。

 

 1つの選択がどのような結果であれ、ずっと先にその影響は続いていくし、派生でまた色々な選択が出てくる。確実な予想を求めるなんて無意味だと思うけど、それでも手持ちの情報で出来る限り望みの方向に進めるよう、自分なりに考察し、未来を考え、目標を定め、それに沿って努力してベストな選択をしていくしかない。但しそれはあくまでも自分が把握してる範囲でのベストであって、その裏にはその何倍もの把握できてない状況があり、本当のベストなんかじゃない事も理解しておかないといけない。本当のベストじゃない以上、未来は危ういと思った覚悟で物事に挑めば多少は余裕も出てくるし、結局何があっても対応もしやすい。予想外の事が起きても諦めもつく。そこまで考えて運を待つぐらいの方が、精神衛生上自分にはいい。

 

だから選択の時には、常に次にどういう流れが来ても動じないような気持でいたいし、予想は立てるけど予想外の事が起こっても当たり前な気持ちでいたい。そして納得できるようにも、出来るだけ自分には正直で、自分に優しい選択をするようにしたい。そういう選択をし続けていけば、これからも何となく乗り切れていけるのかなと思う。

同じでいて欲しい事について

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勉強させてもらったり、成長させてもらったり、何より楽しかったりするのは、違う意見とか見識に触れてそれを理解出来た時だと思う。ちょっと違ったり、自分からしたら変わった意見だったり、なんなら喧嘩にならない程度の言い合いをし合えるような人の方が接してても面白い。自分の努力や考えの延長で得られる知見以外の、想像もつかない刺激が欲しい。だから違う考えや趣味嗜好を持った多様性のある集まりでずっと揉まれていたい。

 

でも、自分に近しい人には、「これに関しては出来れば同じ考えや想いでいて欲しい」と思う事もあって、それはちょっとした本だったり、ある料理だったり、音楽だったり、凄いマイナーな漫画だったり。大したことじゃないんだけど、何故か自分には大切、琴線にふれる事がある。それを初めて体験した時には、「これに関しては同じじゃないと」ってすぐ気が付く、同じでいて欲しい事だなとわかる。無意識の内ながら、自分の歴史の中の積み重ねで好きになっていたり、譲れない確固たる意見になっていて、そうなってるんだろう。

 

頭が良ければ、何故それが同じでないとダメなのか多分説明出来るんだろうけど、自分はそれを上手く言語化出来ないし、したところで意味があるとも思えないからしない。「こうこう、こういう経験と考えで、これに関してはこう思うし、こういう志向ですけどあなたは同じでしょうか?違うなら最後までいれませんね。」なんて馬鹿な事聞けないし、聞こうとも思わない。

 

こういう話を身近な人にすると、それが価値観の違いとかいう奴じゃないの?とよく言われるけどどうなんだろう、なんかそれとはまたちょっと違う気がする。

価値観はなんかもっと人生で大事な選択とか、生き方の根本に関する事だと思うし、そんな大層な事じゃない。別に本当にどうでもいい事。でも価値観が違ってても、この自分にとって近しい人には同じでいて欲しい事が同じなら、その人とは物凄く合うと思う。

 

昔、うちの恩師が別れを切り出そうと思った、惰性の最後のデートの博物館で、何故かメインの絵じゃない、幾つもあるような絵に目が留まって、「これがいいな」と漠然と思ったら、相手も聞いてもないのに、何故かあの絵が一番印象に残って良かったと聞いて、やり直して、それが今の旦那さんと聞かされた。

 

なんとまあ出来過ぎた話って思ったけど、多分それはこの感覚と近いんじゃないかなとは思う。

 

言うてもその恩師、昨年から一人になっちゃいましたけど。

だから「同じじゃないと」はやっぱりよくわかんないです。

 

かしこ。

色々ある事と、逃げる事と、何とかなる事について

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大学時代からの友人は7人組の集団で、年に1回、多くてもあと1回の2回ぐらい、今でも顔を合わせてる。なんかちょっと気取った、回るテーブルのある中華屋さん辺りでご飯食べて、その後は梅田のBARでちょっと呑んで帰るという感じ。「また今度、近いうちに」って言って、その近いうちっていうのは、わざわざ言わなくても大体1年後だなって、共通の認識でいれるぐらいの仲ではあり続けてる。

 

ある日もう耐えきれなくなって、この道を左折したら会社の駐車場って角で右に曲がり、そのまま着の身着のままで北海道に逃亡した人。

マイホームを建てて、奥様と愛娘と幸せに暮らしていたら、ある日突然家の中の物が何も無くなっていて、離婚届に弁護士のコンボ、それ以来娘に会えてない人。

ある日急に会社が倒産、何十人もの従業員の人生が掛かった労使交渉を、当時33歳でやらされた人。

旧帝大卒、ぼんくら軍団の中では一番の期待頭、頭も抜群に良かったのに、2度の失踪で、2回目は九州を放浪していたところを、家出人捜索中の警察に見つかり引き戻された人。

20代で人妻に横恋慕して駆け落ち、気が付けば消防士という固い職業を捨ててた人。

28歳の時に仕事でメンタル潰され、この7人組の中では一番最初にそういう谷間、修羅場を迎えた人は俺。

考えたら、結婚して子供出来て家立てて、良きマイホームパパなんて、絵にかいたような幸せをやってる奴は、仲間内で1人しかいない。みんな色々あるなと。

 

仕事とか、家庭とか、パートナーとの間とか、色々あるのが普通。すまし顔の隣の奴も多分同じ位の重荷の何かを抱えてるのが普通なんだと、この年になって思う。

 

その 色々がどうにもキツい時は逃げて良い。

 

7人組で逃げずに最後まで背負って、一番迷惑かけたのは俺だったし、他の奴はみんなうまくぶん投げて逃げた。そしてそれが正解だった。潰れちゃって、後でケアされる羽目になるよりも逃げた方が絶対いい。基本皆真面目だから逃げないけど、背負えなくて個人の限界超えたら逃げてもいい。借金だって重すぎたら自己破産してもいいでしょ、それと同じで心も重荷がリミッターを越えたら投げて逃げるべき。心をやるほどアホな事は無い。迷惑かけるとか言うけど、潰れられて、それを立て直し、支える方がよっぽど迷惑の度合いも大きい。ぶっちゃけ本人が思ってるほど迷惑じゃない。自分がやっちゃった迷惑って大きく考えがちだけど、他人からしたら責任感無しで淡々と処理するだけって、そんなに負担じゃない。

 

大学時代こんな風な人生になるなんて誰も想像してなかったけど、人生山あり谷ありなのが普通なんだなと。そしてそれは別に法的に刑罰を食らうような事でも無いのであれば、比較的何とかなるよって事を、誰かまだまだ若い人に伝えたい。

 

みんな真面目過ぎる気がする。

 

仕事一つとっても、しんどいしんどいって声を上からも下からも横からも聞くけど、かなり本気で「じゃあやめたらいいですよ、そこまでしんどい思いしてやる必要ないですよ。」って言っても冗談としかとられない。いやいや、マジで言ってるんですって感じなんですけど。

 

色々な事は、みんな何とかなる、人生なんてそんなもんだと信じてる。上に上げた6人は皆今幸せな人生歩んでる。北海道に逃げた奴も、ちゃんと戻ってきてのびのび働いてるし、娘に会えない奴はモデルさんと再婚して、地獄の労使交渉した奴は今はタワマンに住んでるし、家出人捜索された奴は「主夫」で家事頑張ってるし、人妻と駆け落ちした奴は違う人と結婚してマッサージの店を出して、最後のちんぴらも好きな時にバイクに乗って、好き放題走り回ってる。

 

多分俺らも後1,2回はなんかあると思う。でも何とかなると確信もしてるので大丈夫。真剣に頑張って、やるだけやって、それでもダメならそん時はそん時、逃げましょう。別に殺される訳じゃないんだから大丈夫。人生何とかなるように出来てますので。

総選挙と本棚

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中途半端に本を読む人(「読書家」という言葉を使うのは本当に本を読む人に対して失礼なので使いません)でして、月に大体7,8冊読みます。私は自分の興味がある事や、コンプレックス、足らない所を埋めるために本を読みます。つまりどんな本を読んでいるか他人にバレるという事は、「そこに興味がありますよ~、そこが足らない馬鹿なんですよ~、コンプレックスなんです~、お馬さんパカパカ~」って形になってバレてしまうという事です。

 

すまし顔、したり顔でカッコつけても、持ってる本を見られたら一発でバレるという事。これは大変由々しき事態なわけで、私からしたら、電車の中でドヤ顔で見せびらかしながら本読む人ってちょっと凄いと思う。本気で本読んでる姿なんか、人には絶対に見られたく無い。

 

ましてや、その読んだ本が多数収められてる本棚を見られるという事は、万死に値するという事になります。この本とあの本を読むという事は、じゃああの方面も興味があったり、コンプレックスなんだなと、本の組み合わせ、繋がりでもう一つ役が乗って跳満レベルでバレてしまうという事。一冊ならごまかせるものも、集団になるとごまかせない。

 

本棚はその人を表わしている。

 

見られたら頭の中を覗かれるという事で、これは裸見せるより恥ずかしい事だと思ってしまう。マッパで外で歩くのとどっちが恥ずかしいって言われたら、多分本棚見られる方が僅差で勝つ、じゃあ本当にやれって言われたら本棚見せる方を選ぶとは思うけど。

 

こんな私の本棚ですが、キリがないので数年前に絞って一つ。別に高い奴じゃなく、ニトリの安っすい奴で、こいつには約300冊ぐらいしか入りません。で、年に2回ほど、この本棚を整理をするのです。

 

自分の人生の中の300冊の一員に加われるかそうで無いか。AKB48ばりに一人総選挙みたいなのを年2回程やります。書斎の床に本を丁寧に、でも「ばら撒く」。この「ばら撒く」というのが大事で、整理して置いちゃうと後で拾い上げる時にまた違った結果になってしまう。適度に散らしてぐっちゃぐちゃにして撒くのがいいんです、総選挙の前では、愛しき本達は全て平等。

で、一冊拾っては、「ああ、ここがいいよな」とか、「あー、こんな事書いてあったっけ?」とかやるんですけど、もうこれが自分の中で物凄く盛り上がる、こんなもん盛り上がらないわけがない、一人でにやにやしながらやるのです。しかも1日では終わんなくて、大体一週間ほど時間掛けて本棚に戻していく。傍から見たらどういう風に見えるのかわからないけど、他所の人に見せたらダメな光景なのはわかってる。

 

新しく300冊チームに入る本は殆どなくて、一回の整理で3冊入るか入らないか。けど面白いのは、300冊の中で順位はちょこちょこ変わるんです。もうちょい具体的に言うと、1位から15位ぐらいは不動のドリームチーム、黄金聖闘士な本。まあここはそうそう変わらない、此処に食い込んできたらよっぽど。で、下位30冊ぐらいもこれまたほぼ変わらない。半年に一回の総選挙、新しく入る3冊は大体ここに潜り込む。変わるのは300冊レギュラーの真ん中あたり、20位ぐらいから280位ぐらいの間なんです。200位ぐらいの本が、150位とかにジャンプアップしたり、30位のそれなりの出来る奴が、100位とかに暴落したりする。

 

小飼弾さん・岡田斗司夫さんの「未来改造のススメ」はやっぱ面白いから、20位ほどランク上がって60位だなってなったり、伊集院光さんの「のはなし」シリーズは新刊出ないのが腹立つから(連載終わってるので)30位降格で140位とか。その横で4歳の時、擦り切れほど読んだ名著「しょうぼうじどうしゃじぷた」(絵本)も毎回上がりそうで上がらなく、30位ぐらいがレギュラーになってたり。

 

一人総選挙が終わるとぐったりしてしまうけど、心地よい疲労感と言うか、書斎の中がまったりとした空気になります。並び方もバラバラのように見えて、何となく自分の中では順序が立ってるような気がしてます。1位から300位まで一つの曲みたいな感じに思える時もあるぐらい。この半年はこの流れなのかな~って思うんです。本棚崩す前、改めて一覧を眺めてみて、半年前に作った流れはこんなんやったんやなってのも思ったりする。本棚を見ながら、半年の答え合わせみたいなのをやるんです。

 

全部自分の考えの血肉になってる本だけど、その時によって重要度というか自分の中での位置づけが変わったりするのが面白いなと。それが現実に目の前にあって、見せてくれるのが本棚。この本達が、今の馬鹿なりにも、税金を納めれる立場の自分を作って来たという自信になります。自分の後ろにはこの本達を読んできたという自信があるんです、なんかあったらこいつらに再登場してもらって、自分を鍛え直してもらったらいいっていう安心感の砦が本棚なんだなって思います。

 

本棚って素晴らしいわ!

 

裏方ともてなしについて

 

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内容が内容なので詳しくは書けませんが、私の仕事の中の一つに、顧客の団体が主催するハンズオントレーニングのサポートというのがあり、先週末参加してきました。

 

色んなトレーニングのサポートはあるのですが、今回は我々が扱ってるジャンルの製品では日本最大規模のトレーニングで、扱う分野故、一切のおふざけや冗談が許されません。とても厳粛な状態で、3日間、早朝から夜遅くまで行われます。普段は競合関係にある他社の連中とも、牽制し合いながらも協力し、ともにサポートしあいます。

 

失敗が許されない分野でもあり、精神的、肉体的にも疲労が大きいのですが、反面やりがいもあります。この期間、我々以上に顧客の方が精神的、肉体的にも疲労が強く、我々を労ってくれる余裕がある方はあまりいません。でも我々の仕事はトレーニングに100%集中してもらう事ですので、我々を気遣う余裕があるなら、その余裕をもっとトレーニングに向けて頂きたいので寧ろ本望です。あくまでも裏方であり、黒子。とは言え、後日声を掛けてくれたり、後になって、「あの時のトレーニングに参加出来て良かった」とか言われると救われます。今回も2泊3日で何とかやりきって、ヘロヘロで最終の新幹線で帰ってきましたけど、体力が弱ってたせいか体調を崩してしまいました。でも頑張ってよかった、「あの時裏で俺たちが支えた」と思えるだけで満足です。それが一番のモチベーションになって次に備えれます。

 

仕事でそういう事を定期的にしてきているので、プライベートでもイベントに参加すると、そういう裏方の人の動きに、他の人より目が行きやすかったりします。先日もプライベートのコミュニティでイベントに参加してきたのですが、主催してくれた人には勿論ですが、それ以上に感謝し、感動したのが、飲み物や食事を提供し、もてなしてくれた人です。

 

自慢するでもなく、特別高価な材料でも無いとのことでしたが、ちゃんと吟味した材料を使ってるのは、料理をしない私でも流石にわかりました。見た目同じ料理が入ってる鍋が2つあって、「なんで?」と思い聞いたら、参加者の連れてきたお子さん用と、大人向けの味付けが合わない人がいるからとの事で、同じ料理でもレシピを態々作り分ける心使い。10人以上参加する会だから、量だって大量で大変だった筈。食事もこんな感じなのだから、この人がより力を入れてる珈琲も最高だったのは当然で、出すタイミングも自然なタイミングで出てきたし、気が付いたら2杯目がカップに入ってました。

 

ポイントポイントでは気が付くのです。食事が出てきて「ありがとう」、食べて美味しいで「ありがとう」、珈琲の匂いがしたら、持参したマイカップに注がれていて「ありがとう」、無くなったなと思ったらおかわりが入っていて、「ありがとう」って感じで。イベントに集中していたせいもあるのですが、こういうポイントでしかその時は気が付かないんですけど、終わってからの余韻に浸ってる時に、ようやくその一連の「もてなし」に気が付く。裏方でみんなが楽しく心地よく過ごせるよう、集中できるようとの心配りと、ホスピタリティ精神が溢れてました。最後にお礼を言ったつもりですけど、慌ただしくてちゃんと言えなかったのが少し心残りです。

 

イベントというか、人と何かをやる時って、あるレベルまでの満足で良ければ、要領と慣れさえあれば、比較的簡単に達せられます。毎度毎度やってる事なら、「まあこんなもんだろ」で、簡単に準備できます。中には突発的に行う事もあるだろうし、手間暇かけれない時もあるでしょうし、基本的にはそれでいいと思います。

 

食事も別に持ち寄りでいいのかもしれません。適当にサンドイッチでも買って、コンビニの100円珈琲でもよかったのかもしれない、それだって十分美味しいから。スタバで集まってイベントをやるのもいいでしょう、座り心地の良いソファもあるし、安くて美味しい飲み物と食べ物が直ぐに買えます。大事な話や勉強は幾らだってできるでしょうし、大筋の目的は達せられます。8割方、9割方達成できます。

 

でもそれが、ちゃんとそういう集まりの為に考えられた場所で、食事もその為に考えて念入りに準備されたもので、こだわりのある珈琲とカップが準備された場と比べたらどうでしょう。皆が満足するよう、時間も掛けて、気を使って準備して、本番でも参加者に気を使わせないように努力してくれているとしたら。8割、9割の満足度が、限りなく100%に近づくのって、そういう努力をしてくれてる人がいるからなんだと思います。

 

細かい努力や心遣いの結果、小さい満足を積み上げていく。小さい満足って全体の満足度の中で1%とかそんなもの。その1%を刻む、その1%は大変で苦労するんです、でもこの1%に凄い価値があると思います。それも、その努力を回りが気が付いてくれるかどうかなんてわからない、報われないかもしれない。それでもやってくれてるって感謝しかやっぱりでません。

 

先週初めのイベントで、こういう「もてなし」てをして頂け、当然学びも大きく、とても楽しい時間になりました。改めて裏方や、もてなしに対する考え方を意識しましたし、この体験後、先週の後半、冒頭の仕事のイベントに向かい、それを生かすことが出来ました。

 

自分も人に何かをする時は、こういう気持ちを忘れずにいたいと思います。

ちんぴら認定されてますけど。

「うちの子」問題について

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昔、「うちの子です」といって愛犬や愛猫を紹介されるのに違和感があった。「うちの子」という以上、「家族」として扱ってるって事だし。それがなんか許せなかった。

 

別に悪気があるわけでは無いし、何も此方が傷つく事でもないのに、心の中で「いやいや、犬でしょ」って思ってた。犬でしょっていう事で、「人間とは違いますよね?」って当たり前のことを言って区別したがってた。今目の前で話をしている人と、俺の2人でこの空間を共有してますよねって、それは3人ではないでしょって。そこまで酷い人間ではないと信じてるけど、こう書くと犬や猫を当時の俺は「物」に近い形で見ていたのかもしれない。なんで目くじら立てて、喧嘩腰で、人間と他の生き物を必要以上に区別したがってたのか、自分でも良くわからない。勿論言葉には出さなかったけど。

 

ここ4,5年でそういう気持ちが無くなって、犬や猫を「家族」と思う人の気持ちが解って来たような気がする。犬や猫がいるから早く帰る人とか、旅行に行けない人が、ちょっと不思議というか価値観が解らなかったけど、自分にとって子供置いて旅行行けるか?お腹空かせてる子供ほっておいて夜中まで飲み歩くか?って言われたらしない、それと同じことなんだろうと腹落ちした。書くと当たり前すぎるんだけど、しっくり腹落ちした。心の中でも「ああ、かわいいお子さんですね」って本心で言えるようになってきた。

 

当時は人としてどうかなと思ってたから誰にも言わなかったけど、もう違うという事で。ペット好きなお友達の皆様、軽蔑しないでくださいませ。今は違いますから。

 

何が良いって犬や猫は「なんとなく」分かり合えそうなのがいい。言ってる事わかってくれてるんだろうけど、確実に伝わってるわけじゃないのがいい。そういう永遠に言葉で通じ合えない関係なのがいい。人間同士も100%は通じ合えないけど、犬猫の通じ合えない「なんとなく」の塩梅が丁度良いように思う。昔、犬猫の言葉を翻訳するっていうおもちゃがあったけど、アレは愚の骨頂だと個人的には思う。あの「何となく」が良いのに。

 

多分若い時は、この「なんとなく」を自分も人も動物も許せなかったのかなと思う。その辺が許せるようになってきて受け入れられるようになったんだと思う。

 

こっちの意志も「何となく」伝わって、向こうの意志も「なんとなく」わかってるよと、「なんとなく」伝える事が出来る動物と一緒に過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

因みに、飼うなら柴犬が良いなと。あの凛々しい目つきに憧れる。疲れて帰ってきた金曜日にはハイボールを黙って作ってくれて、「お前は頑張ってるよ」って言ってもらいたい。仕事で自信を無くした時、またがらせてくれて、ナポレオンの肖像画みたいな荒ぶるポーズ撮ってfacebookで自慢したい。そんな柴犬と暮らしてみたい。

誰が見てるかわからない

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此処は私の自由帳みたいなもので、書きたい事を書き殴る場所です。100%誰にも遠慮なんかしてない、もう好き放題。そんなとこなのに、更新しましたってfacebookに書くと、70人前後の人が見てくれていてありがたいなと思ってます。まあでも70人と言うのは最初の頃のアクセス解析の結果で、今は見て無いからわからない。怖いから知りたくも無い。

 

ただ書く以上、折角だから見てもらいたいとは思うし、極々たまに人から「あれ面白かった」って言われることも嬉しい。幾ら好きな事を書き殴ると言っても、人に見られることを考えると多少は手直ししたりもする、こんなんでもしてるんです。カッコつけて「誰も見てくれなくてもいい!」とかそんな嘘はつかない。それならそもそも「更新致しました」なんて書かない。そんな中、読んでるのか、見てるのか、義理で開いただけかわからないけど、態々クリックして開いてくれてる。もう感謝しかない、ポッキーぐらいなら何も言わずに黙って全員に奢りたい。

 

でも本当は何時も1人をターゲットに文章を書いてる。それが知り合いであれ、知らない他人であれ、異性であれ、同性であれ、その時々のある特定の人に向けて書いてる。流石に好き放題とはいえ、ネットである以上ぼかしたりもするけど、大多数の人にとか、世に訴えたいとかではなく、あくまでも個人に投げてる。リアルで交流のある人なら、「自分の事だな」って聞いてくるし、言われなくてもバレてる感じはわかる。望んでる事はそれで、それを得られたら後はおまけみたいなもん。だから仮に69人の人が「何だこれ?」って思っても、その1人に伝わればいい、贅沢はあまり言わない。

 

そんな感じで今迄ちんたらきたのに、昨日呑んだ人から、「あの話が好きで共感できる」と昔書いた文章をいきなり挙げられた。ターゲットにはスル―された文章で、たまに感想くれる人からも「あの話は解り辛かった」と言われたり、今でもダメな意味で自分の印象に残ってる文章。それが今更堀り起こされて良かったって言われたからホント驚いた。

 

なんというか、facebookで大した量じゃないけど書き殴りはじめて以来、良かったとかイマイチだったとか、そういう反応も大凡想像通りというか、少なくとも驚くような反応は今迄無かった。ウケたりウケなかったり、その幅も大きかったり小さかったり、後で納得できたというか想定の範囲内ではあった。そんな中、ターゲットにしている人ですら、此方の考えや想いが上手く伝わってない時もあるのに、それを向けた人以上の強い共感、濃い反応が来て焦った。初めての想定外の反応と言うか、攻め込まれ方をされたような。お世辞か場の雰囲気で、繋ぎでそう言ったのかとも思ったけど、その話題で突っ込んだらちゃんと理解してくれてて、それを踏まえたうえで更に話が広がって面白かった。ホント良かった、深酒するぐらいよかった。

 

文章を公開するのって、思いのほか怖い事なのかもしれない。文字に残すというのは、そこを見れる人は何時でもどんな時でもその文章を受け取れるという事。目の前で反応見れないし訂正できない。どういう気分や感情の時にその文章を見たのかわからない。最終、どう解釈されたのかわからない。直接話すなら、相手の状況を見ながら、フィードバックを受けながら、言い方を変えたり、スピードを変えたり、語彙を変えたりする。最悪その話題を止める事だって出来る。でも書かれた文章はそれが出来ない。その文章を読んで、何等かの考えや印象を持つだろうし、その先はそれを私へ向けられる。時間が経つと受け取った人の中で更にそれは熟成されるだろうし、そうなるともうどういう方向に行くのか皆目わからない。今回は自分と同じ方向にドンピシャとハマった人だったから良かったけど、180度違う方向でバッチリ受信されちゃうとかなり面倒くさい事になるのかもしれない。炎上とかそもそも見てる人の数から考えたらあり得ないけど、でもなんか書く事の怖さも今更知ったような気がする。今更何言ってるのって感じだけど、それぐらい衝撃だった。

 

と言う訳でこういう面倒くさい事を考えなくて済むように、次回から「美味しいごはん屋さんを見つけちゃいました~」とか「アテクシのお気に入りヒーリングスポットご紹介!」とか「絶品スウィーツTOP10!」とかそういう方向に舵を切っていこうと思います。愛されるアテクシのアクセル全開でいきますんで。愛されたいので。

 

かしこ。