書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

色々ある事と、逃げる事と、何とかなる事について

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大学時代からの友人は7人組の集団で、年に1回、多くてもあと1回の2回ぐらい、今でも顔を合わせてる。なんかちょっと気取った、回るテーブルのある中華屋さん辺りでご飯食べて、その後は梅田のBARでちょっと呑んで帰るという感じ。「また今度、近いうちに」って言って、その近いうちっていうのは、わざわざ言わなくても大体1年後だなって、共通の認識でいれるぐらいの仲ではあり続けてる。

 

ある日もう耐えきれなくなって、この道を左折したら会社の駐車場って角で右に曲がり、そのまま着の身着のままで北海道に逃亡した人。

マイホームを建てて、奥様と愛娘と幸せに暮らしていたら、ある日突然家の中の物が何も無くなっていて、離婚届に弁護士のコンボ、それ以来娘に会えてない人。

ある日急に会社が倒産、何十人もの従業員の人生が掛かった労使交渉を、当時33歳でやらされた人。

旧帝大卒、ぼんくら軍団の中では一番の期待頭、頭も抜群に良かったのに、2度の失踪で、2回目は九州を放浪していたところを、家出人捜索中の警察に見つかり引き戻された人。

20代で人妻に横恋慕して駆け落ち、気が付けば消防士という固い職業を捨ててた人。

28歳の時に仕事でメンタル潰され、この7人組の中では一番最初にそういう谷間、修羅場を迎えた人は俺。

考えたら、結婚して子供出来て家立てて、良きマイホームパパなんて、絵にかいたような幸せをやってる奴は、仲間内で1人しかいない。みんな色々あるなと。

 

仕事とか、家庭とか、パートナーとの間とか、色々あるのが普通。すまし顔の隣の奴も多分同じ位の重荷の何かを抱えてるのが普通なんだと、この年になって思う。

 

その 色々がどうにもキツい時は逃げて良い。

 

7人組で逃げずに最後まで背負って、一番迷惑かけたのは俺だったし、他の奴はみんなうまくぶん投げて逃げた。そしてそれが正解だった。潰れちゃって、後でケアされる羽目になるよりも逃げた方が絶対いい。基本皆真面目だから逃げないけど、背負えなくて個人の限界超えたら逃げてもいい。借金だって重すぎたら自己破産してもいいでしょ、それと同じで心も重荷がリミッターを越えたら投げて逃げるべき。心をやるほどアホな事は無い。迷惑かけるとか言うけど、潰れられて、それを立て直し、支える方がよっぽど迷惑の度合いも大きい。ぶっちゃけ本人が思ってるほど迷惑じゃない。自分がやっちゃった迷惑って大きく考えがちだけど、他人からしたら責任感無しで淡々と処理するだけって、そんなに負担じゃない。

 

大学時代こんな風な人生になるなんて誰も想像してなかったけど、人生山あり谷ありなのが普通なんだなと。そしてそれは別に法的に刑罰を食らうような事でも無いのであれば、比較的何とかなるよって事を、誰かまだまだ若い人に伝えたい。

 

みんな真面目過ぎる気がする。

 

仕事一つとっても、しんどいしんどいって声を上からも下からも横からも聞くけど、かなり本気で「じゃあやめたらいいですよ、そこまでしんどい思いしてやる必要ないですよ。」って言っても冗談としかとられない。いやいや、マジで言ってるんですって感じなんですけど。

 

色々な事は、みんな何とかなる、人生なんてそんなもんだと信じてる。上に上げた6人は皆今幸せな人生歩んでる。北海道に逃げた奴も、ちゃんと戻ってきてのびのび働いてるし、娘に会えない奴はモデルさんと再婚して、地獄の労使交渉した奴は今はタワマンに住んでるし、家出人捜索された奴は「主夫」で家事頑張ってるし、人妻と駆け落ちした奴は違う人と結婚してマッサージの店を出して、最後のちんぴらも好きな時にバイクに乗って、好き放題走り回ってる。

 

多分俺らも後1,2回はなんかあると思う。でも何とかなると確信もしてるので大丈夫。真剣に頑張って、やるだけやって、それでもダメならそん時はそん時、逃げましょう。別に殺される訳じゃないんだから大丈夫。人生何とかなるように出来てますので。

総選挙と本棚

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中途半端に本を読む人(「読書家」という言葉を使うのは本当に本を読む人に対して失礼なので使いません)でして、月に大体7,8冊読みます。私は自分の興味がある事や、コンプレックス、足らない所を埋めるために本を読みます。つまりどんな本を読んでいるか他人にバレるという事は、「そこに興味がありますよ~、そこが足らない馬鹿なんですよ~、コンプレックスなんです~、お馬さんパカパカ~」って形になってバレてしまうという事です。

 

すまし顔、したり顔でカッコつけても、持ってる本を見られたら一発でバレるという事。これは大変由々しき事態なわけで、私からしたら、電車の中でドヤ顔で見せびらかしながら本読む人ってちょっと凄いと思う。本気で本読んでる姿なんか、人には絶対に見られたく無い。

 

ましてや、その読んだ本が多数収められてる本棚を見られるという事は、万死に値するという事になります。この本とあの本を読むという事は、じゃああの方面も興味があったり、コンプレックスなんだなと、本の組み合わせ、繋がりでもう一つ役が乗って跳満レベルでバレてしまうという事。一冊ならごまかせるものも、集団になるとごまかせない。

 

本棚はその人を表わしている。

 

見られたら頭の中を覗かれるという事で、これは裸見せるより恥ずかしい事だと思ってしまう。マッパで外で歩くのとどっちが恥ずかしいって言われたら、多分本棚見られる方が僅差で勝つ、じゃあ本当にやれって言われたら本棚見せる方を選ぶとは思うけど。

 

こんな私の本棚ですが、キリがないので数年前に絞って一つ。別に高い奴じゃなく、ニトリの安っすい奴で、こいつには約300冊ぐらいしか入りません。で、年に2回ほど、この本棚を整理をするのです。

 

自分の人生の中の300冊の一員に加われるかそうで無いか。AKB48ばりに一人総選挙みたいなのを年2回程やります。書斎の床に本を丁寧に、でも「ばら撒く」。この「ばら撒く」というのが大事で、整理して置いちゃうと後で拾い上げる時にまた違った結果になってしまう。適度に散らしてぐっちゃぐちゃにして撒くのがいいんです、総選挙の前では、愛しき本達は全て平等。

で、一冊拾っては、「ああ、ここがいいよな」とか、「あー、こんな事書いてあったっけ?」とかやるんですけど、もうこれが自分の中で物凄く盛り上がる、こんなもん盛り上がらないわけがない、一人でにやにやしながらやるのです。しかも1日では終わんなくて、大体一週間ほど時間掛けて本棚に戻していく。傍から見たらどういう風に見えるのかわからないけど、他所の人に見せたらダメな光景なのはわかってる。

 

新しく300冊チームに入る本は殆どなくて、一回の整理で3冊入るか入らないか。けど面白いのは、300冊の中で順位はちょこちょこ変わるんです。もうちょい具体的に言うと、1位から15位ぐらいは不動のドリームチーム、黄金聖闘士な本。まあここはそうそう変わらない、此処に食い込んできたらよっぽど。で、下位30冊ぐらいもこれまたほぼ変わらない。半年に一回の総選挙、新しく入る3冊は大体ここに潜り込む。変わるのは300冊レギュラーの真ん中あたり、20位ぐらいから280位ぐらいの間なんです。200位ぐらいの本が、150位とかにジャンプアップしたり、30位のそれなりの出来る奴が、100位とかに暴落したりする。

 

小飼弾さん・岡田斗司夫さんの「未来改造のススメ」はやっぱ面白いから、20位ほどランク上がって60位だなってなったり、伊集院光さんの「のはなし」シリーズは新刊出ないのが腹立つから(連載終わってるので)30位降格で140位とか。その横で4歳の時、擦り切れほど読んだ名著「しょうぼうじどうしゃじぷた」(絵本)も毎回上がりそうで上がらなく、30位ぐらいがレギュラーになってたり。

 

一人総選挙が終わるとぐったりしてしまうけど、心地よい疲労感と言うか、書斎の中がまったりとした空気になります。並び方もバラバラのように見えて、何となく自分の中では順序が立ってるような気がしてます。1位から300位まで一つの曲みたいな感じに思える時もあるぐらい。この半年はこの流れなのかな~って思うんです。本棚崩す前、改めて一覧を眺めてみて、半年前に作った流れはこんなんやったんやなってのも思ったりする。本棚を見ながら、半年の答え合わせみたいなのをやるんです。

 

全部自分の考えの血肉になってる本だけど、その時によって重要度というか自分の中での位置づけが変わったりするのが面白いなと。それが現実に目の前にあって、見せてくれるのが本棚。この本達が、今の馬鹿なりにも、税金を納めれる立場の自分を作って来たという自信になります。自分の後ろにはこの本達を読んできたという自信があるんです、なんかあったらこいつらに再登場してもらって、自分を鍛え直してもらったらいいっていう安心感の砦が本棚なんだなって思います。

 

本棚って素晴らしいわ!

 

裏方ともてなしについて

 

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内容が内容なので詳しくは書けませんが、私の仕事の中の一つに、顧客の団体が主催するハンズオントレーニングのサポートというのがあり、先週末参加してきました。

 

色んなトレーニングのサポートはあるのですが、今回は我々が扱ってるジャンルの製品では日本最大規模のトレーニングで、扱う分野故、一切のおふざけや冗談が許されません。とても厳粛な状態で、3日間、早朝から夜遅くまで行われます。普段は競合関係にある他社の連中とも、牽制し合いながらも協力し、ともにサポートしあいます。

 

失敗が許されない分野でもあり、精神的、肉体的にも疲労が大きいのですが、反面やりがいもあります。この期間、我々以上に顧客の方が精神的、肉体的にも疲労が強く、我々を労ってくれる余裕がある方はあまりいません。でも我々の仕事はトレーニングに100%集中してもらう事ですので、我々を気遣う余裕があるなら、その余裕をもっとトレーニングに向けて頂きたいので寧ろ本望です。あくまでも裏方であり、黒子。とは言え、後日声を掛けてくれたり、後になって、「あの時のトレーニングに参加出来て良かった」とか言われると救われます。今回も2泊3日で何とかやりきって、ヘロヘロで最終の新幹線で帰ってきましたけど、体力が弱ってたせいか体調を崩してしまいました。でも頑張ってよかった、「あの時裏で俺たちが支えた」と思えるだけで満足です。それが一番のモチベーションになって次に備えれます。

 

仕事でそういう事を定期的にしてきているので、プライベートでもイベントに参加すると、そういう裏方の人の動きに、他の人より目が行きやすかったりします。先日もプライベートのコミュニティでイベントに参加してきたのですが、主催してくれた人には勿論ですが、それ以上に感謝し、感動したのが、飲み物や食事を提供し、もてなしてくれた人です。

 

自慢するでもなく、特別高価な材料でも無いとのことでしたが、ちゃんと吟味した材料を使ってるのは、料理をしない私でも流石にわかりました。見た目同じ料理が入ってる鍋が2つあって、「なんで?」と思い聞いたら、参加者の連れてきたお子さん用と、大人向けの味付けが合わない人がいるからとの事で、同じ料理でもレシピを態々作り分ける心使い。10人以上参加する会だから、量だって大量で大変だった筈。食事もこんな感じなのだから、この人がより力を入れてる珈琲も最高だったのは当然で、出すタイミングも自然なタイミングで出てきたし、気が付いたら2杯目がカップに入ってました。

 

ポイントポイントでは気が付くのです。食事が出てきて「ありがとう」、食べて美味しいで「ありがとう」、珈琲の匂いがしたら、持参したマイカップに注がれていて「ありがとう」、無くなったなと思ったらおかわりが入っていて、「ありがとう」って感じで。イベントに集中していたせいもあるのですが、こういうポイントでしかその時は気が付かないんですけど、終わってからの余韻に浸ってる時に、ようやくその一連の「もてなし」に気が付く。裏方でみんなが楽しく心地よく過ごせるよう、集中できるようとの心配りと、ホスピタリティ精神が溢れてました。最後にお礼を言ったつもりですけど、慌ただしくてちゃんと言えなかったのが少し心残りです。

 

イベントというか、人と何かをやる時って、あるレベルまでの満足で良ければ、要領と慣れさえあれば、比較的簡単に達せられます。毎度毎度やってる事なら、「まあこんなもんだろ」で、簡単に準備できます。中には突発的に行う事もあるだろうし、手間暇かけれない時もあるでしょうし、基本的にはそれでいいと思います。

 

食事も別に持ち寄りでいいのかもしれません。適当にサンドイッチでも買って、コンビニの100円珈琲でもよかったのかもしれない、それだって十分美味しいから。スタバで集まってイベントをやるのもいいでしょう、座り心地の良いソファもあるし、安くて美味しい飲み物と食べ物が直ぐに買えます。大事な話や勉強は幾らだってできるでしょうし、大筋の目的は達せられます。8割方、9割方達成できます。

 

でもそれが、ちゃんとそういう集まりの為に考えられた場所で、食事もその為に考えて念入りに準備されたもので、こだわりのある珈琲とカップが準備された場と比べたらどうでしょう。皆が満足するよう、時間も掛けて、気を使って準備して、本番でも参加者に気を使わせないように努力してくれているとしたら。8割、9割の満足度が、限りなく100%に近づくのって、そういう努力をしてくれてる人がいるからなんだと思います。

 

細かい努力や心遣いの結果、小さい満足を積み上げていく。小さい満足って全体の満足度の中で1%とかそんなもの。その1%を刻む、その1%は大変で苦労するんです、でもこの1%に凄い価値があると思います。それも、その努力を回りが気が付いてくれるかどうかなんてわからない、報われないかもしれない。それでもやってくれてるって感謝しかやっぱりでません。

 

先週初めのイベントで、こういう「もてなし」てをして頂け、当然学びも大きく、とても楽しい時間になりました。改めて裏方や、もてなしに対する考え方を意識しましたし、この体験後、先週の後半、冒頭の仕事のイベントに向かい、それを生かすことが出来ました。

 

自分も人に何かをする時は、こういう気持ちを忘れずにいたいと思います。

ちんぴら認定されてますけど。

「うちの子」問題について

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昔、「うちの子です」といって愛犬や愛猫を紹介されるのに違和感があった。「うちの子」という以上、「家族」として扱ってるって事だし。それがなんか許せなかった。

 

別に悪気があるわけでは無いし、何も此方が傷つく事でもないのに、心の中で「いやいや、犬でしょ」って思ってた。犬でしょっていう事で、「人間とは違いますよね?」って当たり前のことを言って区別したがってた。今目の前で話をしている人と、俺の2人でこの空間を共有してますよねって、それは3人ではないでしょって。そこまで酷い人間ではないと信じてるけど、こう書くと犬や猫を当時の俺は「物」に近い形で見ていたのかもしれない。なんで目くじら立てて、喧嘩腰で、人間と他の生き物を必要以上に区別したがってたのか、自分でも良くわからない。勿論言葉には出さなかったけど。

 

ここ4,5年でそういう気持ちが無くなって、犬や猫を「家族」と思う人の気持ちが解って来たような気がする。犬や猫がいるから早く帰る人とか、旅行に行けない人が、ちょっと不思議というか価値観が解らなかったけど、自分にとって子供置いて旅行行けるか?お腹空かせてる子供ほっておいて夜中まで飲み歩くか?って言われたらしない、それと同じことなんだろうと腹落ちした。書くと当たり前すぎるんだけど、しっくり腹落ちした。心の中でも「ああ、かわいいお子さんですね」って本心で言えるようになってきた。

 

当時は人としてどうかなと思ってたから誰にも言わなかったけど、もう違うという事で。ペット好きなお友達の皆様、軽蔑しないでくださいませ。今は違いますから。

 

何が良いって犬や猫は「なんとなく」分かり合えそうなのがいい。言ってる事わかってくれてるんだろうけど、確実に伝わってるわけじゃないのがいい。そういう永遠に言葉で通じ合えない関係なのがいい。人間同士も100%は通じ合えないけど、犬猫の通じ合えない「なんとなく」の塩梅が丁度良いように思う。昔、犬猫の言葉を翻訳するっていうおもちゃがあったけど、アレは愚の骨頂だと個人的には思う。あの「何となく」が良いのに。

 

多分若い時は、この「なんとなく」を自分も人も動物も許せなかったのかなと思う。その辺が許せるようになってきて受け入れられるようになったんだと思う。

 

こっちの意志も「何となく」伝わって、向こうの意志も「なんとなく」わかってるよと、「なんとなく」伝える事が出来る動物と一緒に過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

因みに、飼うなら柴犬が良いなと。あの凛々しい目つきに憧れる。疲れて帰ってきた金曜日にはハイボールを黙って作ってくれて、「お前は頑張ってるよ」って言ってもらいたい。仕事で自信を無くした時、またがらせてくれて、ナポレオンの肖像画みたいな荒ぶるポーズ撮ってfacebookで自慢したい。そんな柴犬と暮らしてみたい。

誰が見てるかわからない

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此処は私の自由帳みたいなもので、書きたい事を書き殴る場所です。100%誰にも遠慮なんかしてない、もう好き放題。そんなとこなのに、更新しましたってfacebookに書くと、70人前後の人が見てくれていてありがたいなと思ってます。まあでも70人と言うのは最初の頃のアクセス解析の結果で、今は見て無いからわからない。怖いから知りたくも無い。

 

ただ書く以上、折角だから見てもらいたいとは思うし、極々たまに人から「あれ面白かった」って言われることも嬉しい。幾ら好きな事を書き殴ると言っても、人に見られることを考えると多少は手直ししたりもする、こんなんでもしてるんです。カッコつけて「誰も見てくれなくてもいい!」とかそんな嘘はつかない。それならそもそも「更新致しました」なんて書かない。そんな中、読んでるのか、見てるのか、義理で開いただけかわからないけど、態々クリックして開いてくれてる。もう感謝しかない、ポッキーぐらいなら何も言わずに黙って全員に奢りたい。

 

でも本当は何時も1人をターゲットに文章を書いてる。それが知り合いであれ、知らない他人であれ、異性であれ、同性であれ、その時々のある特定の人に向けて書いてる。流石に好き放題とはいえ、ネットである以上ぼかしたりもするけど、大多数の人にとか、世に訴えたいとかではなく、あくまでも個人に投げてる。リアルで交流のある人なら、「自分の事だな」って聞いてくるし、言われなくてもバレてる感じはわかる。望んでる事はそれで、それを得られたら後はおまけみたいなもん。だから仮に69人の人が「何だこれ?」って思っても、その1人に伝わればいい、贅沢はあまり言わない。

 

そんな感じで今迄ちんたらきたのに、昨日呑んだ人から、「あの話が好きで共感できる」と昔書いた文章をいきなり挙げられた。ターゲットにはスル―された文章で、たまに感想くれる人からも「あの話は解り辛かった」と言われたり、今でもダメな意味で自分の印象に残ってる文章。それが今更堀り起こされて良かったって言われたからホント驚いた。

 

なんというか、facebookで大した量じゃないけど書き殴りはじめて以来、良かったとかイマイチだったとか、そういう反応も大凡想像通りというか、少なくとも驚くような反応は今迄無かった。ウケたりウケなかったり、その幅も大きかったり小さかったり、後で納得できたというか想定の範囲内ではあった。そんな中、ターゲットにしている人ですら、此方の考えや想いが上手く伝わってない時もあるのに、それを向けた人以上の強い共感、濃い反応が来て焦った。初めての想定外の反応と言うか、攻め込まれ方をされたような。お世辞か場の雰囲気で、繋ぎでそう言ったのかとも思ったけど、その話題で突っ込んだらちゃんと理解してくれてて、それを踏まえたうえで更に話が広がって面白かった。ホント良かった、深酒するぐらいよかった。

 

文章を公開するのって、思いのほか怖い事なのかもしれない。文字に残すというのは、そこを見れる人は何時でもどんな時でもその文章を受け取れるという事。目の前で反応見れないし訂正できない。どういう気分や感情の時にその文章を見たのかわからない。最終、どう解釈されたのかわからない。直接話すなら、相手の状況を見ながら、フィードバックを受けながら、言い方を変えたり、スピードを変えたり、語彙を変えたりする。最悪その話題を止める事だって出来る。でも書かれた文章はそれが出来ない。その文章を読んで、何等かの考えや印象を持つだろうし、その先はそれを私へ向けられる。時間が経つと受け取った人の中で更にそれは熟成されるだろうし、そうなるともうどういう方向に行くのか皆目わからない。今回は自分と同じ方向にドンピシャとハマった人だったから良かったけど、180度違う方向でバッチリ受信されちゃうとかなり面倒くさい事になるのかもしれない。炎上とかそもそも見てる人の数から考えたらあり得ないけど、でもなんか書く事の怖さも今更知ったような気がする。今更何言ってるのって感じだけど、それぐらい衝撃だった。

 

と言う訳でこういう面倒くさい事を考えなくて済むように、次回から「美味しいごはん屋さんを見つけちゃいました~」とか「アテクシのお気に入りヒーリングスポットご紹介!」とか「絶品スウィーツTOP10!」とかそういう方向に舵を切っていこうと思います。愛されるアテクシのアクセル全開でいきますんで。愛されたいので。

 

かしこ。

採用面接

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採用面接について。

 

お見合いと同じです

 

採用面接を受ける側も、開く側も経験したことがあるけど、基本新卒をなぎ倒して足斬りするような面接でもない限り、じっくりお互いを見合うために金よりも貴重な時間割いてる。お見合いみたいなもんです、ゆっくり話し合いましょうが基本、戦争するわけじゃないんだから、焦らずに。無理かもしれないけど焦らずに。

 

言わなくても良い事

 

実績や成してきたことは履歴書や職務経歴書に書いてるし、それ見たら読む人だれでも100%簡潔にわかるように書いてないとそもそもダメ。お見合い写真と同じ、きっちり化粧して見栄え良く、でも嘘じゃない自分が写ってる。それ見て面白いから、興味を惹かれたからお見合いの機会があるわけでしょう。だからそんな紙に書いてあることを改めてアピールするのは時間が勿体無い。聞かれない限りそういう事はいちいち言わなくてもOK。

 

嘘つくのはダメです

 

お見合い写真であなたを良いなと思って会ってるんだから、基本オッケーなわけです。肯定が前提、そこで嘘ついてもしょうがないと思う。嘘ついて変な気にいられ方してもあとでキツい。後で嘘つき呼ばわりされるような事言った先に幸せなんて見えない。採用面接はお互い仲間として、お互い幸せになれるかの確認なんだから、嘘ついても後でお互い苦しくなる。出来ない事を出来ると言って、出来ない事を大量に振られたり、やりたくない事をやりたいと言っても同じ。面接で嘘つくのはダメです。ここまで読んで嘘なんて言う訳ないと思ってると思いますが、人間緊張してテンパるとトンデモない事言って、その風呂敷たたむために自然に嘘つくときがあります、注意しましょう。

 

緊張はしてて当たり前、先ずは笑え

 

その後の生き方が変わる可能性がある採用面接で緊張しないような奴は、そもそも雇われるんじゃなくて起業してるような奴か、とんでもなく出来ない奴。その緊張を笑いに変えてしまいましょう。無理にひきつってでもいいので「緊張してるのでうまく話せないかもしれません、すみません」でアハハって引きつってでも笑ったら自分も楽になるし、面接するサイドだって暖かく笑えます。愛嬌でしょう、見合いだって緊張する。絶対最初に笑え。

 

先に結論を言いましょう

 

端から言うのは簡単だよなって思われるかもしれないけど、基本肯定してくれるんだから、言いたい事を自信もって簡潔に。質問や投げかけに簡潔に結論言ってしまって、その後になんでそう思うのかゆっくり付け足せば聞く方も楽だし、理解しやすい。テンパっても先に結論言ってるから大丈夫。で、最後に結論をもう一回言えば印象も強まります。

 

物語にしましょう

 

折角の本人同士のお見合いなんだから、何処かで書いてきたような、文章のような言い方はやめましょう。物語のようにというとハードル高いかもしれないけど、直属の上司やゼミの先生に話しかけるような感じにするのが、過剰にならずに、フランクにならなさ過ぎずで丁度いいんじゃないかと思います。綾瀬はるかに話しかけるのはガチガチになるし、国語の文章口調になるだろうけど、クラスのアイドルになら、ちょっと緊張しながらも、話すような感じで物語語れます。

 

結局熱意です

 

最後は「熱意」とか言うとお前はダサいと言われるかもしれないけど、やっぱりこれだと思います。「どーしても入りたいです、理屈は今まで言ってきた通りですけど、もうそんなのチャラでも良いので入りたいです、入って「何々」をやりたいです!」って喰らい付くべき。愛の告白。お見合い写真から気合の入った化粧も、みんなこの最後の一押しの為にあります。最後の最後、どんだけカッコ悪くても絶対本音で入りたい意志をおもくそぶつけてやりましょう。それで響かない会社なら、どれだけよく見えても多分あなたには向いてないという事だと思います。

 

偉そうに色々書きましたけど、唯一転職経験に関してだけはあなたより勝ってるので、言いたい事書かせて頂きました。

明日の健闘祈ってます。

 

跡継ぎ

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子供の頃から社長と言うのは憧れの対象であり、割と身近にいました。言うてもウチの母方の祖父なんですが、印刷会社を経営していました。従業員も20人位いて、3階建ての小さいながらも自社ビルの立派な会社でした。屋上にはペントハウスっていうんでしょうか、小屋と言うにはちょい広めな部屋がありまして、社長室とはまた別の祖父の個人的な部屋になっていました。汗にまみれて働いて、賞与の前の日は祖父が各々の従業員さん向けに一つ一つ封筒に現金を詰めてたのを思い出します。当時は景気が良かったので、札束がエラいことになっていました。あの時触った100万円の札束の感触は強烈で、あの日見た札束の群れを凌ぐ現金を目の前で見たのって、自分が不動産を買う時の頭金を出した時だから、それから20年も経ってから。兎に角会社と社長と言うのは祖父のイメージが強く、そのあとを継ぐ叔父とその息子(私の従兄弟)が羨ましくて仕方なかったです。

 

祖父、祖母には三姉妹がいまして、その長女がウチの母親なのですが、当然祖父は母が婿を取って後を継いでくれるように考えていたようです。事実、当時の女性には珍しかった大学の商学部にうちの母を入れたぐらいで、その辺の期待は大きかったんでしょう。ただ母は後を継がなかった。お見合い結婚なうちの両親ですから、その辺は結婚前に色々決まってそうですし、ダメならダメで破談なのが筋かと思うんですが、何故かそうなった。この辺りは息子でもデリケートな話なので中々聞けないのですが、何かあったのは間違いなく、兎に角そうなった。まあ破談なら私この場に居ないのでよかったんですけど。で、次女も拒否で、いよいよ最後の三女という事で、三女が婿を取って継ぎました。しかも長女次女はお見合いだったのに、三女は大恋愛というのがまた面白い。栃木の林業の家の長男ながら、東京の大学で青春を送り、何故か淡路島に婿としてきた叔父。栃木には海が無いのにいきなり島。因みに今の私があるのがこの叔父のおかげと言うか、30%ぐらいはこの人の影響で私が出来てます。

 

前置き無茶苦茶長くなったんですが、兎に角この叔父が継ぎ、その息子の従兄弟が印刷会社を継ぐことが確定なわけで、事実今は従兄弟が継いでます。昔は羨ましくて仕方なかった。叔父、従兄弟とは仲良かったので、その羨ましいという気持ちが変な方向に行く事は無かったのですが、やっぱり羨ましい、だって社長ですよ。今ほど起業のハードルが低くない時代に社長です、今でいう勝ち組だなって思ってた。そんな感じで小学校、中学校、高校ときて、大学時代は就職氷河期時代ですから、羨ましい気持ちがMAXだったような気がします。

 

で、私も無事ちんぴらバカボンながら新卒で会社に潜り込み、上手くいって挫折して、転職してまた仕事の面白さを知ってなんて忙しくしている間に、そういう社長とかに対する意識、関心が薄れてきつつも、叔父従兄弟との楽しい交流は続いていました。

 

10年ぐらい前からですかね、従兄弟が後を継ぐか継がないかあたりの時に、その「社長」と言う意識がまた出てきて、そのフィルターで彼を見るとあんまり楽しそうに見えなかったんです。町内会の集まり、消防団、PTA役員活動は勿論、子供の卒業後も公立学校に対するボランティア、地元自営業者の集まり、その中でも印刷業者での集まり等々。地元で芸能人がディナーショーをやる時は横の繋がりでチケットを引き受けたりとかも。これは普通の民間企業でもあるかもしれないけど、顧客との付き合いも大切です。なんせ先代から続いてる付き合いですから、断るハードルが私のハードルとは次元が違います、毎週1回は使う運転代行代も馬鹿にならないとか。全部実質的な拒否権が無いんです。先代と同じような付き合いを求められてそれが当たり前。中々しんどいよなと思う訳です。そういうの子供の頃や若い時は見えなかった。

 

いい歳になって何となく家の仕事を継ぐ息苦しさ的なものが見えてきたというか。たまに従兄弟とは吞むんですけど、一回だけふと「本当は長女の息子の私が今頃継いでる筈だったんじゃないの?なんでこうなってるの?」って酔った勢いで言われてしまって、上手く答えれませんでした。

 

キツい言い方をすると家の仕事と地元に縛られる、自由が無い。レールに縛られるって言い方は好きじゃないんですけど、割と自由にやってきた私からしたらそうなのかなと思います。私が車で、荒地なんかも比較的走って開拓できるSUVなら、彼は電車みたいなもので行き先が決まってる。まだ目的地の駅やレールがしっかりしてたらいいんだけど、業界も先細りで厳しい、ゴールの駅は無くなってるのかもしれない。気が付いたらペントハウスは物置になってたし、自社ビルもメンテが出来ずにくたびれてるし、20人ぐらいいた従業員はもういません、従兄弟夫妻に叔父と叔母の4人で回してます。彼にも子供がいるんですが、もう継がせない、彼の代で終わりにするのは決めているようです。

 

こっちは子供のころから彼の立場を羨ましく思ってたけど、ある時期を境にそれが反対になって、彼が俺を羨ましく見ていました。チャレンジしたかったけどそれが出来なかったし、そんな意志を表示する機会も空気すらなかった。私は当たり前のように自由にチャレンジして、良い目にも痛い目にも合ってきたけど、彼にはそれが羨ましくて仕方なかった。

 

 従兄弟の回りも代変わりしつつあり 、昔の変な習慣や、しがらみは無くしていこうという流れになっていってるとの事で、少しずつまた変わっていくんでしょう。少しでも楽になればと願ってます。

 

勘違いして欲しくないんだけど、別に先代の跡を継ぐという事を辞めようとか駄目とか言ってるんじゃないんです。選択の自由を上げようという事で、それは表向きの事じゃなくて真の意味で選択させてあげたいという事なんです。

 

色々あるし、継ぐ意思のある人は背負ったらいいと思う。継いだからこその積み重ねで更に大きなものが見えたり、得たりもすると思う。でも望まないのに、違う道が眩しく見えてるのにそれにチャレンジすら出来ず、泣く泣く諦めたりするような世の中の空気は無くしたいなと思います。

 

全ての跡継ぎの皆様、お疲れ様です。