書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

誰が見てるかわからない

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此処は私の自由帳みたいなもので、書きたい事を書き殴る場所です。100%誰にも遠慮なんかしてない、もう好き放題。そんなとこなのに、更新しましたってfacebookに書くと、70人前後の人が見てくれていてありがたいなと思ってます。まあでも70人と言うのは最初の頃のアクセス解析の結果で、今は見て無いからわからない。怖いから知りたくも無い。

 

ただ書く以上、折角だから見てもらいたいとは思うし、極々たまに人から「あれ面白かった」って言われることも嬉しい。幾ら好きな事を書き殴ると言っても、人に見られることを考えると多少は手直ししたりもする、こんなんでもしてるんです。カッコつけて「誰も見てくれなくてもいい!」とかそんな嘘はつかない。それならそもそも「更新致しました」なんて書かない。そんな中、読んでるのか、見てるのか、義理で開いただけかわからないけど、態々クリックして開いてくれてる。もう感謝しかない、ポッキーぐらいなら何も言わずに黙って全員に奢りたい。

 

でも本当は何時も1人をターゲットに文章を書いてる。それが知り合いであれ、知らない他人であれ、異性であれ、同性であれ、その時々のある特定の人に向けて書いてる。流石に好き放題とはいえ、ネットである以上ぼかしたりもするけど、大多数の人にとか、世に訴えたいとかではなく、あくまでも個人に投げてる。リアルで交流のある人なら、「自分の事だな」って聞いてくるし、言われなくてもバレてる感じはわかる。望んでる事はそれで、それを得られたら後はおまけみたいなもん。だから仮に69人の人が「何だこれ?」って思っても、その1人に伝わればいい、贅沢はあまり言わない。

 

そんな感じで今迄ちんたらきたのに、昨日呑んだ人から、「あの話が好きで共感できる」と昔書いた文章をいきなり挙げられた。ターゲットにはスル―された文章で、たまに感想くれる人からも「あの話は解り辛かった」と言われたり、今でもダメな意味で自分の印象に残ってる文章。それが今更堀り起こされて良かったって言われたからホント驚いた。

 

なんというか、facebookで大した量じゃないけど書き殴りはじめて以来、良かったとかイマイチだったとか、そういう反応も大凡想像通りというか、少なくとも驚くような反応は今迄無かった。ウケたりウケなかったり、その幅も大きかったり小さかったり、後で納得できたというか想定の範囲内ではあった。そんな中、ターゲットにしている人ですら、此方の考えや想いが上手く伝わってない時もあるのに、それを向けた人以上の強い共感、濃い反応が来て焦った。初めての想定外の反応と言うか、攻め込まれ方をされたような。お世辞か場の雰囲気で、繋ぎでそう言ったのかとも思ったけど、その話題で突っ込んだらちゃんと理解してくれてて、それを踏まえたうえで更に話が広がって面白かった。ホント良かった、深酒するぐらいよかった。

 

文章を公開するのって、思いのほか怖い事なのかもしれない。文字に残すというのは、そこを見れる人は何時でもどんな時でもその文章を受け取れるという事。目の前で反応見れないし訂正できない。どういう気分や感情の時にその文章を見たのかわからない。最終、どう解釈されたのかわからない。直接話すなら、相手の状況を見ながら、フィードバックを受けながら、言い方を変えたり、スピードを変えたり、語彙を変えたりする。最悪その話題を止める事だって出来る。でも書かれた文章はそれが出来ない。その文章を読んで、何等かの考えや印象を持つだろうし、その先はそれを私へ向けられる。時間が経つと受け取った人の中で更にそれは熟成されるだろうし、そうなるともうどういう方向に行くのか皆目わからない。今回は自分と同じ方向にドンピシャとハマった人だったから良かったけど、180度違う方向でバッチリ受信されちゃうとかなり面倒くさい事になるのかもしれない。炎上とかそもそも見てる人の数から考えたらあり得ないけど、でもなんか書く事の怖さも今更知ったような気がする。今更何言ってるのって感じだけど、それぐらい衝撃だった。

 

と言う訳でこういう面倒くさい事を考えなくて済むように、次回から「美味しいごはん屋さんを見つけちゃいました~」とか「アテクシのお気に入りヒーリングスポットご紹介!」とか「絶品スウィーツTOP10!」とかそういう方向に舵を切っていこうと思います。愛されるアテクシのアクセル全開でいきますんで。愛されたいので。

 

かしこ。

採用面接

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採用面接について。

 

お見合いと同じです

 

採用面接を受ける側も、開く側も経験したことがあるけど、基本新卒をなぎ倒して足斬りするような面接でもない限り、じっくりお互いを見合うために金よりも貴重な時間割いてる。お見合いみたいなもんです、ゆっくり話し合いましょうが基本、戦争するわけじゃないんだから、焦らずに。無理かもしれないけど焦らずに。

 

言わなくても良い事

 

実績や成してきたことは履歴書や職務経歴書に書いてるし、それ見たら読む人だれでも100%簡潔にわかるように書いてないとそもそもダメ。お見合い写真と同じ、きっちり化粧して見栄え良く、でも嘘じゃない自分が写ってる。それ見て面白いから、興味を惹かれたからお見合いの機会があるわけでしょう。だからそんな紙に書いてあることを改めてアピールするのは時間が勿体無い。聞かれない限りそういう事はいちいち言わなくてもOK。

 

嘘つくのはダメです

 

お見合い写真であなたを良いなと思って会ってるんだから、基本オッケーなわけです。肯定が前提、そこで嘘ついてもしょうがないと思う。嘘ついて変な気にいられ方してもあとでキツい。後で嘘つき呼ばわりされるような事言った先に幸せなんて見えない。採用面接はお互い仲間として、お互い幸せになれるかの確認なんだから、嘘ついても後でお互い苦しくなる。出来ない事を出来ると言って、出来ない事を大量に振られたり、やりたくない事をやりたいと言っても同じ。面接で嘘つくのはダメです。ここまで読んで嘘なんて言う訳ないと思ってると思いますが、人間緊張してテンパるとトンデモない事言って、その風呂敷たたむために自然に嘘つくときがあります、注意しましょう。

 

緊張はしてて当たり前、先ずは笑え

 

その後の生き方が変わる可能性がある採用面接で緊張しないような奴は、そもそも雇われるんじゃなくて起業してるような奴か、とんでもなく出来ない奴。その緊張を笑いに変えてしまいましょう。無理にひきつってでもいいので「緊張してるのでうまく話せないかもしれません、すみません」でアハハって引きつってでも笑ったら自分も楽になるし、面接するサイドだって暖かく笑えます。愛嬌でしょう、見合いだって緊張する。絶対最初に笑え。

 

先に結論を言いましょう

 

端から言うのは簡単だよなって思われるかもしれないけど、基本肯定してくれるんだから、言いたい事を自信もって簡潔に。質問や投げかけに簡潔に結論言ってしまって、その後になんでそう思うのかゆっくり付け足せば聞く方も楽だし、理解しやすい。テンパっても先に結論言ってるから大丈夫。で、最後に結論をもう一回言えば印象も強まります。

 

物語にしましょう

 

折角の本人同士のお見合いなんだから、何処かで書いてきたような、文章のような言い方はやめましょう。物語のようにというとハードル高いかもしれないけど、直属の上司やゼミの先生に話しかけるような感じにするのが、過剰にならずに、フランクにならなさ過ぎずで丁度いいんじゃないかと思います。綾瀬はるかに話しかけるのはガチガチになるし、国語の文章口調になるだろうけど、クラスのアイドルになら、ちょっと緊張しながらも、話すような感じで物語語れます。

 

結局熱意です

 

最後は「熱意」とか言うとお前はダサいと言われるかもしれないけど、やっぱりこれだと思います。「どーしても入りたいです、理屈は今まで言ってきた通りですけど、もうそんなのチャラでも良いので入りたいです、入って「何々」をやりたいです!」って喰らい付くべき。愛の告白。お見合い写真から気合の入った化粧も、みんなこの最後の一押しの為にあります。最後の最後、どんだけカッコ悪くても絶対本音で入りたい意志をおもくそぶつけてやりましょう。それで響かない会社なら、どれだけよく見えても多分あなたには向いてないという事だと思います。

 

偉そうに色々書きましたけど、唯一転職経験に関してだけはあなたより勝ってるので、言いたい事書かせて頂きました。

明日の健闘祈ってます。

 

跡継ぎ

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子供の頃から社長と言うのは憧れの対象であり、割と身近にいました。言うてもウチの母方の祖父なんですが、印刷会社を経営していました。従業員も20人位いて、3階建ての小さいながらも自社ビルの立派な会社でした。屋上にはペントハウスっていうんでしょうか、小屋と言うにはちょい広めな部屋がありまして、社長室とはまた別の祖父の個人的な部屋になっていました。汗にまみれて働いて、賞与の前の日は祖父が各々の従業員さん向けに一つ一つ封筒に現金を詰めてたのを思い出します。当時は景気が良かったので、札束がエラいことになっていました。あの時触った100万円の札束の感触は強烈で、あの日見た札束の群れを凌ぐ現金を目の前で見たのって、自分が不動産を買う時の頭金を出した時だから、それから20年も経ってから。兎に角会社と社長と言うのは祖父のイメージが強く、そのあとを継ぐ叔父とその息子(私の従兄弟)が羨ましくて仕方なかったです。

 

祖父、祖母には三姉妹がいまして、その長女がウチの母親なのですが、当然祖父は母が婿を取って後を継いでくれるように考えていたようです。事実、当時の女性には珍しかった大学の商学部にうちの母を入れたぐらいで、その辺の期待は大きかったんでしょう。ただ母は後を継がなかった。お見合い結婚なうちの両親ですから、その辺は結婚前に色々決まってそうですし、ダメならダメで破談なのが筋かと思うんですが、何故かそうなった。この辺りは息子でもデリケートな話なので中々聞けないのですが、何かあったのは間違いなく、兎に角そうなった。まあ破談なら私この場に居ないのでよかったんですけど。で、次女も拒否で、いよいよ最後の三女という事で、三女が婿を取って継ぎました。しかも長女次女はお見合いだったのに、三女は大恋愛というのがまた面白い。栃木の林業の家の長男ながら、東京の大学で青春を送り、何故か淡路島に婿としてきた叔父。栃木には海が無いのにいきなり島。因みに今の私があるのがこの叔父のおかげと言うか、30%ぐらいはこの人の影響で私が出来てます。

 

前置き無茶苦茶長くなったんですが、兎に角この叔父が継ぎ、その息子の従兄弟が印刷会社を継ぐことが確定なわけで、事実今は従兄弟が継いでます。昔は羨ましくて仕方なかった。叔父、従兄弟とは仲良かったので、その羨ましいという気持ちが変な方向に行く事は無かったのですが、やっぱり羨ましい、だって社長ですよ。今ほど起業のハードルが低くない時代に社長です、今でいう勝ち組だなって思ってた。そんな感じで小学校、中学校、高校ときて、大学時代は就職氷河期時代ですから、羨ましい気持ちがMAXだったような気がします。

 

で、私も無事ちんぴらバカボンながら新卒で会社に潜り込み、上手くいって挫折して、転職してまた仕事の面白さを知ってなんて忙しくしている間に、そういう社長とかに対する意識、関心が薄れてきつつも、叔父従兄弟との楽しい交流は続いていました。

 

10年ぐらい前からですかね、従兄弟が後を継ぐか継がないかあたりの時に、その「社長」と言う意識がまた出てきて、そのフィルターで彼を見るとあんまり楽しそうに見えなかったんです。町内会の集まり、消防団、PTA役員活動は勿論、子供の卒業後も公立学校に対するボランティア、地元自営業者の集まり、その中でも印刷業者での集まり等々。地元で芸能人がディナーショーをやる時は横の繋がりでチケットを引き受けたりとかも。これは普通の民間企業でもあるかもしれないけど、顧客との付き合いも大切です。なんせ先代から続いてる付き合いですから、断るハードルが私のハードルとは次元が違います、毎週1回は使う運転代行代も馬鹿にならないとか。全部実質的な拒否権が無いんです。先代と同じような付き合いを求められてそれが当たり前。中々しんどいよなと思う訳です。そういうの子供の頃や若い時は見えなかった。

 

いい歳になって何となく家の仕事を継ぐ息苦しさ的なものが見えてきたというか。たまに従兄弟とは吞むんですけど、一回だけふと「本当は長女の息子の私が今頃継いでる筈だったんじゃないの?なんでこうなってるの?」って酔った勢いで言われてしまって、上手く答えれませんでした。

 

キツい言い方をすると家の仕事と地元に縛られる、自由が無い。レールに縛られるって言い方は好きじゃないんですけど、割と自由にやってきた私からしたらそうなのかなと思います。私が車で、荒地なんかも比較的走って開拓できるSUVなら、彼は電車みたいなもので行き先が決まってる。まだ目的地の駅やレールがしっかりしてたらいいんだけど、業界も先細りで厳しい、ゴールの駅は無くなってるのかもしれない。気が付いたらペントハウスは物置になってたし、自社ビルもメンテが出来ずにくたびれてるし、20人ぐらいいた従業員はもういません、従兄弟夫妻に叔父と叔母の4人で回してます。彼にも子供がいるんですが、もう継がせない、彼の代で終わりにするのは決めているようです。

 

こっちは子供のころから彼の立場を羨ましく思ってたけど、ある時期を境にそれが反対になって、彼が俺を羨ましく見ていました。チャレンジしたかったけどそれが出来なかったし、そんな意志を表示する機会も空気すらなかった。私は当たり前のように自由にチャレンジして、良い目にも痛い目にも合ってきたけど、彼にはそれが羨ましくて仕方なかった。

 

 従兄弟の回りも代変わりしつつあり 、昔の変な習慣や、しがらみは無くしていこうという流れになっていってるとの事で、少しずつまた変わっていくんでしょう。少しでも楽になればと願ってます。

 

勘違いして欲しくないんだけど、別に先代の跡を継ぐという事を辞めようとか駄目とか言ってるんじゃないんです。選択の自由を上げようという事で、それは表向きの事じゃなくて真の意味で選択させてあげたいという事なんです。

 

色々あるし、継ぐ意思のある人は背負ったらいいと思う。継いだからこその積み重ねで更に大きなものが見えたり、得たりもすると思う。でも望まないのに、違う道が眩しく見えてるのにそれにチャレンジすら出来ず、泣く泣く諦めたりするような世の中の空気は無くしたいなと思います。

 

全ての跡継ぎの皆様、お疲れ様です。

多趣味のススメ

 

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趣味ってあります?

どんな趣味ですか?

幾つ趣味ありますか?

その趣味をベースに人とつながってますか?

 

ゲームが大好きでした。学生の頃、間抜け面下げて「趣味はゲームです」って堂々と言ってました。言われた人の半分ぐらいは「趣味じゃなくて遊びやろ」って態度でしたけど、今でいうリア充みたいな奴ら、鴨川に等間隔で座ってそうな奴らには特に馬鹿にされてたと思う。

 

ゲームって将棋とか囲碁とか、百歩譲ってオセロとかじゃなくてTVゲームな所が余計そういう雰囲気を作ったのかもしれない。ファミコン世代バリバリの中年ですが、ウチの親父が理系の新しモノ好きという事もあって、ファミコン以前のインベーダーゲームを買ってもらってやり始めていたという筋金入りです。その後は順調にファミコンスーパーファミコンメガドライブセガ党なんです!)、プレステ等、順調にゲーム人生を歩みつつ、社会人になってもやっぱりゲームにハマってました。20代後半はバイオハザードというネット経由のゲームで、遠隔地の友人や見知らぬ人と一緒に深夜になってもやってました。兎に角ゲーム好きだった、本当に大好きでした。

 

過去形なのはもうやってないからで、多分最後にゲームやったの10年以上前。綺麗さっぱりやらなくなって、あのジャンキーの如くゲームやってた自分が全くやらないなんて、当時の自分からしたら信じられないと思う。仕事や家族、他の趣味に忙しくなったとか色々あるけどそんなの言い訳で、本当にやりたかったら時間作ってやってる筈。なんでやめれたのかズーッと不思議だったんだけど、この間ようやくわかった。友達がゲームをやめたからだわ。1人でやっても面白くなくなってしまったから。

 

思えば子供の頃からゲームには何かしらの誰かとの交流がセットだった。子供の頃は学校の同級生だし、大学の時も友達と一緒に。社会人になったら同じゲームセンターを根城にしてる、本名も年齢も何してるのかも知らない知り合い。もう本当にゲームは楽しかったんだけど、ゲームを通じての人とのつながりが何より楽しかった。一緒にやるから楽しかったし、あれだけ熱くなれたし、ハマれた。ほれ見ろ鴨川の奴ら、これだけ熱く人とつながる事が出来るゲームは、やっぱり立派な趣味だろうが!

 

社会人になると急に社交の場が狭まります。仕事が面白いのは結構なんですけど、熱中するあまり、仕事のつながりの輪しか無くなったなんて危なっかしい。転職したり辞めたら急に縁が無くなるかもしれないし、今の会社や組織、役職でつながってるだけかもしれません(自分はそう思ってなくても)。

 

無趣味で定年迎えて、誰とつながってますか?配偶者に子供が2人いたとしても、3人しかつながってる人いなくなりますよ。で、今の世の中それすら危うくないですか?寿命もこれから延びていきます。ゆるいつながりが楽しく生きるセーフティーネットになります。人間一人になると寿命が縮みます。

 

趣味があればその趣味を軸に人とつながれます。同じ趣味なら年齢も性別も関係ありません。上下関係も、ややこしい金銭を中心とした仕事のようなしがらみもありません。世代も性別も超えてつながれる輪なんて趣味ぐらいじゃないと難しいでしょう。小学生からその輪に入ってもいいし、おじいちゃん、おばあちゃんになっても輪で楽しさと刺激をもらい、与えましょう。その趣味を極めてる小学生には羨望の眼差しを送って教えを乞うてもいいし、まだまだ未熟なハゲちゃびんな中小企業の部長には、愛のあるしごきをしてもいいでしょう。

そして趣味の輪に入り仲良くなれば、さらに別の趣味の輪を紹介してもらえるかもしれません。輪がもっともっと広がっていきます。 

 

無趣味の方、とりあえずなんかやってみましょうよ。趣味持ってる人も1つ2つではなく、5つ6つと増やしましょう。少しでも興味あるものにはどんどん首突っ込みましょう、節操がないくらいでもいいと思います。周りになんかやってる人いるでしょうから、声かけてみて、やってる趣味ちょっとかじらせてもらいましょうよ、先ずは食わず嫌いを辞めて、色々やってみる。一回経験してみて嫌ならやめたらいいだけだし、思いのほか楽しいかもしれません。アタリ見つけたらラッキーで。

 

で、いい感じの趣味見つけたら、その趣味の輪みたいなのになんとか潜り込みましょう。Facebookでもなんでもいいので、そう言う輪なんて幾らでもあると思います。ちょっとの勇気が確かに要りますけど、大抵の所は新参者でも歓迎してくれるんじゃないでしょうか。誰だって仲間が増えるのは嬉しいと思うし、いい意味でおせっかいな人がいれば向こうも此方もハッピーです。万が一弾かれるようなら、そんな新しい人を入れないような組織は新陳代謝起こせずそのうちにダメになっていくので、此方から願い下げです。内々のマニアが輪を潰すなんてよくある話で。

  

バイクとジョギングぐらいしかない趣味を増やすべく、嫌でスルーしてた釣りや料理のお誘い、ダメもとで受けてみようと思います。「騙されたと思って」って地雷の言葉だけど、面白い可能性10%も無いかもしれないけど、チャレンジしてみようと思います。

 

何ならもう一回、友達誘ってゲームやってみるかもしれません。そん時は灰皿投げつけるほどまた熱くなれたらいいなとは思う、投げないけど、投げそうになるとは思うけど。

OSの先をどうするか

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文章を書くという事は、自分が考えた事や問いを他の人に投げて、「理解」してもらうためです。ですよね?

 

このデジタルな世の中、AIが凄く進んでいて、シンギュラリティすらそう遠くない内に現実になるんじゃないかって中、随分まだまだアナログな感じがします。砂に指で書いてたのが筆になり、鉛筆になって、それがボールペンからPCのキー、スマホのフリックに、音声入力になっても、何らかの物理的な形にいったん変換して、言葉にしなきゃならない。アナログでデジタルじゃない、曖昧なアナログだから、書いててどれだけ自分の馬鹿な考えが、読んでくれてる方に伝わってるのか不安になります。別にブログだけでなく、どっかの書き込みでもそうだし、直接しゃべっていてもそう。頭に電極刺す時代はこの問題を乗り越えてるかもしれないけど、まだ先です。

 

私の母語は日本語だし、頭の中は日本語で物事を考えてます。私の文章を見てもらう方も、母語が日本語では無くても、日本語を理解してくれる方を想定してます。日本語で書いてて日本語で理解するって、最低限「OS」が先ずは同じという事なんです。OSが同じだから、別に上手に書かなくても、何となく70%ぐらいは言いたい事伝わるのかな、あくまでも個人的にそう思うだけですけど。で、日本語と言う共通OSの先は各々のカスタマイズされた世界が広がってるわけです。その人なりの人生の経験や学習した感覚がある、それをベースに言葉を受け取り、頭の中で展開再現する。

 

私が外出て風が強いなって感じたら、「外は風が強かった」って書きます。風が強かったって「強い」ってどれぐらい?「家の外は風が飛ばされそうなほど強かった」って書いても「飛ばされそうな」ってどれぐらい?になる。全部主観的です、主観的は個々の観測に基づくものだから、私と他の方は100%同じものを頭の中で再現できない訳です。やっぱり電極指さないと延々と続く。

 

頭の中と頭の中を繋ぐ、翻訳するものは言葉しかない。アナログでノイズにまみれたり、何か欠けていたりする。だから人とのやり取りの手段としての言葉は、どこかで妥協しなきゃならない。もどかしさが凄いわけです。それでも言葉で紡いでいかないとしょうがないんですが。

 

ありがたい話なんですが、私の落書きブログは更新すると約70人の方がからかいに来てくれてるようなのです。これ読んでるあなたもその一人、ばれてまっせ。ならその70人全員受け取るものが違う訳ですよね、OSの先が違うわけだから。なんかそれがもどかしいというか、怖いというか残念というか。目の前にいて反応見て、追加とか訂正とかできたらちょっとはマシだけど、webだからそんな訳にはいかない。精々facebookに反応を書いてもらえて、それに返事を書かせて頂けるだけ。凄く嬉しいけどそれぐらいしか出来ない。

 

役に立つことなんて0%、何も書いてないけど、思ったことは出来るだけ100%届くようにしたいなと思ってるんです。馬鹿な事書いてるなでもいいんです、本当に馬鹿なこと書いてるんだから。でもその馬鹿な事が「私の考えてる馬鹿な事」と、あなたが受け取ってくれて「頭に再現された馬鹿な事」が限りなく同じにしたいんです。100%は無理かもしれないけど、今が70%なら80%、90%、91・92・93・・・・って99%にしていきたい。

 

もっともっと言葉を勉強しないといけないなと痛感するし、言葉使いにも注意しないといけない。今この思いを伝えるのは、この人にはどんな言葉でどんな間で、どんなペースで伝えないといけないのか。

 

文章って難しいです。

ハレとケを無くす

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昨日1号バイクの初乗りでした。

 

またお前のバイクポエムかって話なんですけど、事はそう単純な話では無いので最後まで。バイク自体の初乗りは1月7日に済ませてるのですが、貧乏人のくせに私はバイクを2台持ってまして、初乗りは2号機、7日は雪の積もる京都の山奥の美山に牛乳ソフトクリームを食いに行くという、興味無い人からしたら頭おかしいんじゃないかという初乗り。で、本命、本妻の1号機さんにも何処か連れてってやらないといけない訳で、色々考えたのですが、私の定番にしている京都の山奥や奈良、三重の山間は雪や凍結のリスクが高く、結局考えて和歌山市に向かいました。

 

和歌山市って物凄く行ってるのです、最盛期は週に三日程朝から晩まで。おまけに追加で後一日は和歌山県和歌山市以外に。何の事は無い、仕事で担当していたって事なんですけど、数度の転職の中で何故か和歌山県和歌山市には縁があり、頻度の差はあれ計10年程和歌山には通ってます。でもプライベートでは今まで1回しか行ったことが無いんです。しかも市内じゃない白浜(知らない人に説明すると関西では温泉、海で有名、しかも上野動物園では珍重されてるパンダが当たり前のようにいる)に遊びに行ったぐらいで、帰りにお約束のパンダ見て帰って来たという。出不精な方でもないので、ちょこちょこ色んなとこには行ってるんですが、意図的に避けてたんです。まあ避けてなくても和歌山市ってあんまり行く所ないかもしれないけど。

 

私だけかもしれないんですが、結構な期間、仕事は成果とかそんな事の前に「しんどい事」で無ければいけないって思い込みがありました。生まれたばかりのヒナが初めて見たものを親と思いこむ「刷り込み」宜しく、私が大学出て初めて入った会社が体育会系も体育会系、仕事が楽しいなんて言おうもんなら気合が入ってないって殴られてもおかしくない、事実キツい仕事でした。その意識がずっと残ってたというか取り付かれていました。仕事はしんどい事、そんなしんどい事を思い起こさせる仕事の手帳は、休日には見るどころか触りたくもない、仕事とプライベートの手帳は完全に別。金曜日の深夜に会社を出た瞬間、圧倒的開放、土曜、日曜の昼過ぎまで娑婆でパラダイス。「サザエさん症候群」どころか、夕方からすでに憂鬱で、月曜日の朝なんか戦争でも始まって会社に行けなくなったら良いのにって本気で思ってました。もうこんなの会社の懲役囚だろって感じで、今考えると色々笑っちゃうんだけど。でも当時は本気でそんな状況で、そんな状況なら、仕事してる地域に1cmでも入りたくないって気持ち、解ってもらえるんじゃないかと思います。

 

転職して業界も変わってそんな事は無くなったんですけど、それは刷り込みですから、自然とそういう意識が残ってるんですね。だから10年近く、仕事では頻繁に行く、何なら、和歌山出身者だけど他所で住んでる人より詳しくなってるような状況になっても、やっぱりプライベートでは寄り付かない感じで。でもいい加減そういう気持ちから自分を解放しないと可能性が狭まるなって思い、バイクのツーリング先って言い訳しつつ、それでようやく和歌山市に。

 

もー不思議、凄い不思議、何これ?って感じ。

 

何時もは戦闘モード、車でハンズフリーで代理店担当者や同僚、何ならクレーム対応で頭下げながら、それでもエアコンで快適な環境で、デフォは英語のリスニングテキストが流れつつ、時にはTVのワイドショーで川谷は本当にゲスだったけど、ベッキーもアレはアレで大したもんだな的な情報を得てたのに(例えが古すぎ)、今日は1号さんバイクでヘルメット越しの世界、寒さもダイレクト、並走する車が跳ねる小石がカンカン当たるなんてありえない。よく知ってる、なんなら信号のタイミングもわかるぐらい見慣れた景色なのに、見てる視野は全然違う、夢見てるんじゃないかって経験だった。土日には私の日本地図から消えていた和歌山市が確かに実在してた。

 

物凄い失礼な、あくまでも私個人の話として許して欲しいんですが、和歌山市って自分の中では仕事という何処か本当の自分のいる場所とは違う、「ケガレ」の場所だったのに、それが「ハレ」の世界にやって来たって感じ。お前何言っちゃってるの?って感じかもしれないけど、兎に角凄い経験でした。最後は一応目的にしていた淡嶋神社という、和歌山市の端で我がルーツの淡路島を眺めて帰ってきました。因みにここは人形が万単位で奉納されてるのが有名なんだけど、そんなの見る精神的余裕はなく昨日は終了。

 

仕事って人によってそのスタンスがかなり違うと思います。勿論社会人成り立ての頃と、リタイア間近ではまたちょっと違うかもしれないけど。私を含めてみんな仕事に随分囚われ過ぎてるような気がします。ちゃんとしなきゃとか、成果を出さないと首になるとか、組織に貢献しないとお荷物になるとか。そりゃ仕事ですから職種によっては自他の安全性に関わったり、消費者に多大な迷惑をかけるようなものもあるでしょうから、不真面目はダメでしょう。でもなんか死にそうな顔して毎朝電車に乗るのもどうなのかと思うのです。

 

仕事をしている自分とプライベートの自分が半々位で、それが合わさって一人の自分ではなく、一人の自分がまずあって、その中のあくまでも一部に仕事をしている自分がいる、それぐらいの考えが丁度良いのかなと思います。仕事で失敗しても、仲間との出世レースから脱落しても、仮にクビになっても、笑って「そんな時もあるわ」って思える方が人間らしい。そしてそんな人間の方がタフだろうし、結果的に生み出すものも大きいんじゃないかと思う。

 

もっとプライベートと仕事をシームレスにしたい。一週間の中、週休二日なら土日が解放された休みで、残り5日はほぼ奴隷みたいな感覚から抜けたい。なんなら7日間中ずっと休みで、休みの暇つぶしの一環で仕事を真面目にやるって感じにしたい。繰り返すけどそれぐらいの気持ちの余裕を持った方が生み出すものも大きい筈。「仕事はしなきゃいけないもの」って意識から、少しだけ解放されたらみんな楽になるのにな~って、ずっと束縛されてた私が言える事でもないのに、そんな事を思いながら帰りましたとさ。

 

で、渾身のグルメレポートの件ですが、仕事してる時にたまに食べた和歌山ラーメンの店は何時ものように其処にあって、何時ものような味でした。特別上手くも不味くもなく、何時もの普通の味でした。グルメレポート終わり。

 

かしこ。

 

えーご

英語の勉強って大変です、しんどいです。

 

日本に生まれた我々は、赤ん坊の時から日本語で育ち、情緒も趣もみんな日本語で心の中に紡いできてます。心の中で自然に沸き起こる内なる感情は、日本語で出てくるのが当り前です。言葉ってそんなもんです、他の人に自分の意志や感情を伝える手段だけではない、心の内を司るものは日本の言葉、日本語でしょう。

 

学生時代、英語が大っ嫌いでした。ていうか、此処は日本で俺は日本人で、周りの友達も知り合いも皆日本人、日本語で話は伝わるし、何不自由無く意思疎通できる。何で態々外国の言葉学ばなあかんのよって思っていました。

 

でもある日ふと気が付くのです、我ら日本人は「世界」という世の中で少数派なんだって。それまでの世の中って日本だけでしたけど、本当の世の中って「世界」の世の中なわけです。で、残念ながらその「世界」で日本語は通じないんです。

 

共通語があるんです、だって中国人と話す時に中国語を学んで話して、ドイツ人と話す時にドイツ語を学んで話して、ロシア人と話す時にロシア語を学び話す、ケニヤ人の時はスワヒリ語。そんなの無茶苦茶大変でしょう、何か国語覚えなきゃいけないのよ。だから共通語があるんです、それが英語なんです。一つの言語、英語を学べば通じあえる。

 

だから英語なんて手段でしかないんです、各々の情緒も、趣も、心の中で自然に沸き起こる内なる感情をも伝える只の手段なんです。

 

で、その手段を学ぶのに苦労してるんです。そりゃしんどいですよ、自分の国の言葉=情緒も趣も心の中で自然に沸き起こる内なる感情なわけで、もうそれって人格なわけです。日本語があるのに他の言葉を入れるって、ある意味違う人格を自分の中に創らないといけないって事なんだと思います。そらしんどいわ。

 

でもです、でもですよ、それだけしんどくても学ぶ価値があると思うんです。我々日本語を母国語にしてる人口は約1億2千万人。ではそれ以外の人って世界でどれだけいるのって、約72億いるわけです。72億て60倍でしょ、60倍なんですよ。

 

親友って何人います?

友達は?

親友っていても5人ぐらいでしょうか、友達もダンパー数から考えたら150人いたら凄いでしょう、その60倍ってどういう事よってなりません?

親友300人いたら無茶苦茶人生楽しいと思いません?

だって毎日違う親友と遊んでも、ほぼ10か月回るわけです。

これは凄いと思う訳ですよ。

 

英語を学べたらこれが現実になる可能性があるわけです。もー凄くないですか?、ワクワクしません?

非現実的なこと言ってるかもしれない、ただの屁理屈かもしれない、でも可能性あるわけですよ、世界中で親友が300人出来る可能性が。

 

という訳で、私を含めて英語を今頑張って勉強してる人にこの落書きを捧げます。

皆で頑張りましょうね。